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「せつない芸術家」とは

更新日:1月23日




せつな‐い

【切ない】


悲しさ・寂しさなどで、胸が締めつけられるような気持ち




「せつない芸術家」とは


苦悩や努力を積み重ながら、多くの人に影響を与える新しいアートを生み出すためにがんばっているのに何かしら報われない人のこと。


 日本でも人気のある印象派の画家たち、ゴッホやゴーギャン、モネ、マネ、ロートレック、モジリアニ…彼らの描く絵は、なぜ人々の心を打つのでしょう。それは情熱や才能がありながらも評価されなかったり、生き方が不器用だったり、貧困だったりとどこか報われない切なさが彼らの表現の源にあるからではないでしょうか。

 彼ら芸術家自身と創造したアート作品は「気質、習慣、思いの強さ、誰かの支え、出会い、環境、…」とさまざまな境遇(組み合わされた条件)の違いによって異なる魅力や特徴、それぞれが唯一無二のものとして構築されたといえます。


 芸術家は十人十色で、それぞれが違った生き方をしています。それだけ生き方にはたくさんの選択肢があるということです。

 幕末志士の坂本龍馬が『人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある。』と語っていたように十人十色の自分らしさを見つけて、開放された気持ちになっていきたいものです。


幕末志士の坂本龍馬






逃亡生活の売れっ子画家


【名 前】 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ




【芸術活動】絵画制作


 光と陰のコントラストで劇的に演出した明暗法を確立し絵画を描きました。ローマ・カトリック教会の改革運動を背景としたバロック美術の先駆者としての役割を果たしました。

 卓越した描写、ドラマティックな明暗、人物ひとりひとりの感情の巧みな表現は、イタリアだけではなく、オランダにおいても「カラヴァッジオ派」という一派を誕生させ、後世の画家たちに多大な影響を与え、一世を風靡したのです。


『聖マタイの召命』 1599-1600年


 カラヴァッジオの傑作中の傑作であるこの作品は、展示されている教会堂の窓から差し込む現実の光の調和を考えて本作の光の効果を設定し、現実世界と絵画世界の教会を取り払う工夫のひとつです。


【生息地】 バロック期イタリア


[特徴・習性]

 絵の達人・気性が激しい・争いごとが絶えない・孤独・過ちを繰り返す愚か者・

 名高い犯罪者


『ホロフェルネスの首を斬るユディト』 1598年 - 1599年




【エピソード】 「短気は損気」


 絵で光と影の演出革命を起こしたバロック絵画の売れっ子スター。

 7歳の時に天涯孤独の身となり、1592年に空前の建築ブームで仕事が多かったローマに単身で向かい、画家ジョゼッペ・チューザリの工房に入門しました。絵の修業をして、花や静物の描写を担当し画家としての技量を知られるようになりますが1594年に病気を理由に工房を解雇され独立します。


『果物籠を持つ少年』1593年 - 1594年


『果物籠』1596頃



 1601年(30歳)頃から素行不良が目立ち始め、1606年に賭け事の口論で殺人を犯してしまい逃亡者になってしまいます。一度は絵の才能で免罪されますが、激しい気性のため罪を繰り返し、逃亡生活の中で絵画制作の依頼を受けながらも歴史に残る名作を描き続けました。

 奇しくも遺作と同様に斬首刑で幕を閉じた人生も絵も劇的だった37年間の生涯を終えたのです。


『ゴリアテの首を持つダビデ』 1609年 - 1610年


『洗礼者聖ヨハネの斬首 』 1608年


 

【余談ですが】


西洋では薄明りや夕暮れ時を楽しむ習慣があり日が暮れてもなかなか明かりをつけません。薄明りの中で過ごす時間が多いほど明暗の感度が敏感になます。

この習慣も西洋画が光と影にこだわり、明暗法が発展した要因でもあります。







弟子になめられていた大天才



【名 前】 レオナルド・ダ・ヴィンチ

生まれ】 1452年4月15日 イタリア アンキアノ




【芸術活動】 絵画・壁画(フレスコ)制作/美術解剖学/建築/自然科学


 まだ学問的にアートといった縛りのなかったルネサンス期の万能人。


『ウィトルウィウス的人体図』、1485年頃



【生息地】 ルネサンス期イタリア


【特徴・習性】

 万能・大天才・マイペース型イケメン・気分屋・飽きっぽい・人望がない



【エピソード】 『名馬に癖あり』


 ルネサンス期のミケランジェロ、ラファエロらと三代巨匠(芸術家)の一人。「最後の晩餐」「モナ・リザ」などで誰もが知っている画家ですが、それは彼の単なる一面であり、環境の観察に膨大な時間を費やしていた科学者でもある。

 日本では天才や学者の代名詞のように扱われているダ・ヴィンチだが、西洋ではその多彩な才能から様々なゴシップ(噂)で騒がれていた。


『モナ・リザ』1503年 - 1505 1507



 「最も高貴な喜びとは、理解する喜びである」と語るレオナルド・ダ・ヴィンチは

「凡庸な人間は、注意散漫に眺め、聞くとはなしに聞き、感じることもなく触れ、味わうことなく食べ、体を意識せずに動き、香りに気づくことなく呼吸し、考えずに歩いている」

と嘆き、あらゆる楽しみの根底には感覚的知性を磨くといった真面目な目的があると提唱していた。


 レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』1495年 - 1498年 イタリア



 ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に描かれている遠近法(一点透視図法)を完璧に実証している絵。その消失点であるキリストのこめかみには穴が空いている。ダ・ヴィンチは芸術的な感性が豊かなだけではなく、この穴からひもを引っ張り作図するなど技法や作業法を論理的に開発する研究者でもあった。




大天才のざんねんな一面


   多岐にわたり才能を発揮して探求心を持ち続けた彼ですが、地位や名誉、世間の目や評価には関心がなかったようです。依頼された大切な仕事の期限を守らず、飽きっぽく途中で投げ出してしまうほどいい加減な一面があった。

 彼の工房で修行をする弟子たちに対しても教育熱心ではなかったようで、意外にも尊敬される師匠ではありませんでした。どちらかというと気分屋でマイペースのいい加減なアウト人間として、弟子からはバカにされていた。





弟子の若きダ・ヴィンチに憧れた師匠ヴェロッキオ



【名 前】アンドレア・デル・ヴェロッキオ

死 亡 1488年10月10日 イタリア ヴェネツィア




【芸術活動】 彫刻・絵画制作/機械工学/数学/音楽/教育


イタリア ルネサンス全盛期、フィレンツェの天才芸術家。

また、弟子の才能を引き出し伸ばすことに長けていた彼は、教育家としても第一人者でした。そんな師匠ヴェロッキオの工房には、大勢の芸術家たちが弟子として集まっていました。同時代の天才画家ボッティチェリも彼の助手をしていた。



【生息地】 ルネサンス期イタリア


[特徴・習性]

 天才・人望が厚い・万能・苦労人・人格者



【エピソード】 『ヴェロッキオ』とは「本物の目」という意味


修業時代の若いダ・ヴィンチは、師匠であるヴェロッキオが制作する『ダビデ像』のモデルに抜擢されるほどの美男子でした。

容姿端麗で豊かな才能にも恵まれた弟子のダ・ヴィンチに師匠のヴェロッキオは好意と嫉妬が入り混じった複雑な感情を抱いていたのかもしれません。



 ヴェロッキオ作『ダビデ像』



師匠に引退を決意させた弟子の絵:「青は藍より出て藍より青し」


弟子のダ・ヴィンチに描かせた部分の絵を観て師匠ヴェロッキオは引退を決意しました。若きダ・ヴィンチの才能、美しい容姿などさまざまな意味でヴェロッキオは芸術家として第一線で弟子たちをけん引する自信と生命力の低下、老い、必ず訪れる新旧交代のタイミングを悟ったのかもしれません。


『キリストの洗礼』

 ⇒ キリストの洗礼(部分)

弟子ダ・ヴィンチが描いた天使↑   ↑師匠ヴェロッキオが描いた天使







美男子で目がハートだけど顔がデカイ彫像



【名 前】 ミケランジェロ・ブオナローティ

死 亡 1564年2月18日 イタリア ローマ




【芸術活動】 彫刻・壁画制作/建築/詩


ルネサンスの三大芸術家(ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ)の一人。

斬新で力強い表現を次々と生み出しました。



【生息地】 ルネサンス期イタリア


[特徴・習性]

 負けず嫌い・激情型・執念深い・自尊心が強い・傲慢・孤独


『ピエタ』1498年 - 1500年



【エピソード】


この時代、男色の芸術家は珍しくなくミケランジェロも女性像の作品でも男性モデルを描いたデッサンをもとに制作していました。そのため女神をテーマにした作品でも筋肉質でたくましく感じられるのです。

そんな独創的な新作の制作途中を見られないように一人こもって仕事をするような負けず嫌いでした。特に先輩であり既に世間で高い評価を得ていたダ・ヴィンチに対しては、「絵しか描けないくせに」とライバル心をむき出しにしていたようです。



イケメンだけど顔がでかいダビデ像


遠近法は絵画だけの技法ではありません。ミケランジェロは『ダビデ像』を見上げる位置にセッティングすることを想定して、下から見た時にプロポーションが自然にみえるように造りました。だから彼の造ったダビデ像を正面から見ると胴体に対して、不自然に顔が大きく腕や首が長いのです。


『ダビデ像』 1501-1504年イタリア

 

目がハートマークの『ダビデ像』※割礼・キリスト教の象徴




執念深い芸術家の「芸術的な復讐」


ミケランジェロ『最後の審判』1541年 イタリア



裸体の群像で埋められた不謹慎な絵だと批判した儀典長ビアージオの股間に蛇が食らいつき辱めを受けている絵が壁画の画面右下に描き加えられています。

ミケランジェロのプライドの高さと執念深い性格が伺える芸術的な仕返しです。






斬新!「ルネサンスのコスプレ大会」



【名前】 ラファエロ・サンティ(イタリア人)

死 亡 1520年4月6日 イタリア ローマ




【芸術活動】 絵画・壁画制作/建築


同時代の芸術家たちをリスペクトし研究したラファエロは、クアトロチェント(15世紀)の多くの芸術家たちの念願だった自然の忠実な描写ということに固執しませんでした。彼は心に浮かぶ不変の型に意識的に従おうとしました。

優雅でバランス感覚に優れた絵画を確立し、その後の西洋絵画の美の基本として崇められました。



【生息地】 ルネサンス期イタリア


[特徴・習性]

社交界の花・女好きの色男・天才・温厚・優しい・素直・薄命


『ガラテイア』1512-14年頃



【エピソード】 『美男薄命』


同じルネサンス期の大芸術家ダ・ヴィンチやミケランジェロとは異なり、女性が好きだった若き天才画家ラファエロは、社交的で他者の良い所を素直に受け入れる肯定的な性格だったようです。

1509年-1510年に描いた『アテナイの学堂』では、レオナルド・ダ・ヴィンチのソクラテス役などその当時の巨匠をリスペクトしていたことが伺えます。




優美な曲線で聖母像をたくさん描き、あまりにも美しい絵の女性に魅了された人にモデルは誰だとたずねられた時、「ある概念に従ったまでだ」と答えました。


『大公の聖母』1505年



性格も温厚なラファエロは社交界でも人気者で人生絶好調でしたが、『キリストの変容』を作製中だった1520年の誕生日4月6日に早世してしまいます。また、この年の聖金曜日であったため死んだ瞬間、ヴァチカン宮殿にヒビが入ったという伝説もうまれるほど神格化されたのです。


『キリストの変容』1520年







芸術界のストーリーテラー



【名 前】 レンブラント・ファン・レイン

生まれ】 1606年7月15日 オランダ ライデン




【芸術活動】 絵画制作


【生息地】 オランダ


[特徴・習性]

 研究熱心・商売人・孤独・妄想癖



【エピソード】


商業絵画を始めたのは、陽気な大酒飲みのオランダ人


『デルフトのファン・デル・メール博士の解剖講義』ミヒール・ファン・ミーレフェルト

※同じ料金を払っているので、依頼者たちを平等に描いていた集団肖像画:例



バロック時代の大巨匠レンブラント作品 16-17世紀 イタリア

この絵は、依頼者である医学者の研究心と学会の評判を上げる絵として絶賛されました。


『テュルプ博士の解剖学講』 1632年


『フランス・バニング・コック隊長の市警団』 1642年



 バロック絵画の巨匠レンブラントは、この作品がきっかけで落ち目になった。

 バロック時代、画家はクライアントの依頼に忠実なデザイナーだった。集団肖像画『夜警』は、人物によって目立ち方にむらがある上にこの団体とは無関係な女性をヒロイン的に描くなど勝手に物語風にして、不公平だと依頼者たちに叱られた。






芸術界の大成功者を悩ませたこと



【名 前】 ピーテル・パウル・ルーベンス(ドイツ人)

生まれ 1577年6月28日 ドイツ ジーゲン




【芸術活動】 絵画・壁画制作/外交官


 バロック絵画の巨匠でありながら、国同士のいざこざや親交問題を文化的に解決する外交官でもありました。



【生息地】 イタリア⇒スペイン


[特徴・習性]

 天才・高い知性・豊かな教養・語学力・人望に厚い・大成功者


『聖母被昇天』1625年 - 1626年




【エピソード】「天は二物を与えず」


 19世紀のイギリスで書かれた児童文学『フランダースの犬』の主人公ネロが祈りを捧げていたアントウェルペン大聖堂のマリアの絵『聖母被昇天』もネロが見たがっていた絵画である『キリスト昇架』と『キリスト降架』もルーベンスが描いた絵です。


『キリスト降架』 1611-1614年



 芸術家としても外交官としても大成功したルーベンスは、仕事関係の宴会つづきなど豊かな生活習慣のために慢性の痛風を患ってしまいます。そんな贅沢病に悩まされたあげく、心不全により63歳で亡くなりました。その時、死別した前妻との間に生まれた3人の子女とルーベンスが53歳の時に再婚した16歳の妻が、その後に生んだ5人の子供たちがいました。ルーベンス死去時に末っ子の子は、まだ生後8カ月の乳児でした。

 仕事では大成功者となったルーベンスですが、本人が探求したい創作活動と家庭的には思い残すことがあったのかもしれません。






お金にうるさかった画家



【名 前】 エル・グレコ(ギリシャ人)

死 亡 1614年4月7日 スペイン トレド




【芸術活動】 絵画制作


 聖人画・宗教画の巨匠画家。彫刻作品の原案の絵、大聖堂の祭壇の考案や礼拝堂の建築設計も手掛けました。自分らしさを追求した最初の画家といえますが、独創的で斬新な表現だったので世の中で評価され仕事の依頼がくるまでに時間がかかりました。



【生息地】 ギリシャ⇒イタリア⇒スペイン


[特徴・習性]

努力家・自信家・貧乏性・自尊心が強い


『羊飼いの礼拝』 エル・グレコ




【エピソード】『聖人を描く欲深い画家』


 若いころは貧困生活をしていた貧乏画家でした。だから芸術家として成功して裕福になってもお金に対する執着心が強く、自分が描いた絵の報酬代金をいつも高く見積もっていたので依頼主と揉めることが多かったようです。

 この時代の絵画の値段は、まず依頼主側、制作側で、それぞれが作品の値段を決める査定人を選び、お互いの見積もりを考慮して決められていました。その際に折り合いがつかない場合は、依頼側の選んだ調停係の価格調整を優先していたので、画家側が不利になる場合が多かったのです。

 そのことが自尊心の強いグレコを晩年まで悩ませていたのです。グレコは生涯、金銭のトラブルに振り回されたのです。







焼き捨てられた絵



【名 前】 安井曽太郎(日本人)

生まれ 1888年5月17日(京都府 京都市

死 亡 1955年12月14日(神奈川県 湯河原町


日本では浅井忠に師事し、同時期の海老原龍三郎らと関西で洋画を学んでいた。その後、フランスに渡りアカデミー・ジュリアンで学ぶ(以前の作は焼き捨てたとのことで、彼の初期作品はほとんど現存していない)。

フランス滞在の7年間の間にイギリス、イタリア、スペインなどへも旅行している。 フランスでの作品と渡欧前のデッサンとでは大きく異なった点があります。 木綿問屋の坊ちゃんの曽太郎は家の使用人らをモデルに素描していたようですが、渡欧後とそれ以前と明らかな変化が分かります。


安井曽太郎(東京美術学校【現在の東京藝術大学】 教授)のドローイング作品


関西の洋画研究所で学んでいた時期と渡欧して、何を学び吸収したのか想像してみてください。     描写を意識した素描から、空間性や人体への視点、表現テーマが生まれ、人体の躍動感や空間の臨場感がダイナミックに描かれたデッサンになっています。また、対象物を見たまま写し取っていた初期作品と比較すると見上げた視線の動きを考えた構成になっています。

                                      これら作家の作品展開をみるとドローイングの上達は、単に技術的なスキルアップだけではなく、対象物の捉え方や環境の変化、自分の視点(テーマ)も大きく影響してくることが分かります。 対象物の捉え方、見方や描き方、制作のテーマは様々で、作家のキャラクターや生き方、表現手段などの数だけ「画風」があるといってもいいでしょう。 







自分のことをアーティストだとは思っていないアーティスト



【名 前】 ダルトン・ゲッティ(アメリカ人)

生まれ】 ブラジル、サンパウロ生まれ


 9.11以降、犠牲者のために1日1本、鉛筆の芯を彫刻しているアメリカの大工さん。

彼は、自分の国の犠牲者のために自分に出来ることをみつけてやっているだけで、

自分のことをアーティストだとは思っていない。









 2001年9月11日のテロ襲撃に遺憾の念を持ったダルトンは、現場付近に落ちていた鉛筆を拾い、亡くなった人たちへの追悼として、一人一個の涙のしずくを作る事を計画。

 10年で3000個を作り、一つの作品としてまとめた。ダルトンの作品は売られていず、美術館に展示されている。







まだまだ描き足りなかった画狂老人



【名 前】 葛飾北斎(江戸:日本人)

生まれ 1760年10月31日

死 亡 1849年5月10日





富嶽三十六景『神奈川沖浪裏』 1831-33年(天保2-4年)頃  葛飾北斎



世界的にも著名な画家 葛飾北斎は「70歳までに描いたものは取るに足らない」と、晩年に掛けた信念、衰えない絵への執着心を示していました。

 様々な表情の富士山を描いた代表作《冨嶽三十六景》は、北斎がじつに70代になってから制作されたものです。このシリーズは、当時に熱狂的な富士山信仰もあったことで浮世絵史上屈指のベストセラーとなりました。


富嶽三十六景『凱風快晴』 1832年  葛飾北斎



その後10年ほど浮世絵の発表を続けますが、最晩年はまた絵手本と肉筆画、いわゆる挿絵画家としても活躍しました。それからも自ら「画狂老人」と名乗り、88歳で没するまで創作意欲は衰えることはありませんでした。


北斎が6歳のときに江戸で浮世絵版画の多色摺の技術が完成し、華やかな織物に例えられ「錦絵」と呼ばれました。絵草紙屋の店頭に並んだ錦絵は、幼い北斎にとって心を躍らせる最新鋭のマスメディアだったわけです。10代の頃に北斎は木版画の彫師として修行を積み、やがて浮世絵師に弟子入りし、おもに役者絵を描いていました。90年におよぶ北斎の人生は、物心ついて間もない頃から、浮世絵版画の歴史とともにあった”錦絵の申し子“と言えます。




88歳と、当時では長命だった葛飾北斎ですが、没するまでに、当時のペンネームともいえる号を30回も改めました。主な号として挙げられているものだけでも、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」の6つ。晩年に至っては「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」というユニークなペンネームを名乗っています。

 葛飾北斎が次々と改号していた理由には、号を弟子に譲ることで収入を得ていたという説もありますが、実際、著名な「北斎」の号も弟子に譲っていたようです。また、自らの才能をオープンにすることをよしとしない性格だったからという説もみられます。


 35歳の頃、北斎は「俵屋宗理」と名乗ります。琳派の祖とされる俵屋宗達(生没年未詳)との関係性をほのめかす名前ですが、詳しいことはわかっていません。


『紅白梅図屏風』



行儀作法を知らず挨拶はしない、金銭に無頓着、身なりには気を遣わない、歩く時に呪文を唱えていたなど、葛飾北斎の奇人エピソードは多々あります。

 改号30回に加え、引っ越しは93回したともいわれている葛飾北斎。たび重なる引っ越しの理由もふるっていて、掃除をしないので、部屋が汚れるたびに引っ越していたとも言われています。また、出来の悪い着物を身に着けて、他人から「田舎者」と言われることを密かに喜ぶような気性だったという話もあります。


『雪中虎図』 1849年 葛飾北斎



絵を描くことに関して、非常にストイックで、いくつになっても探求心が衰えることのなかった葛飾北斎。「私は73歳でようやくあらゆる造形をいくらか知った。90歳で絵の奥義を極め、100歳で神の域に達し、110歳ではひと筆ごとに生命を宿らせることができるはず」と、死の数ヶ月前に描いたという《雪中虎図》は、虎の質感や肢体が独特の雰囲気で老いてなお上を目指す北斎の心のようです。

今際の際、「天が私の命をあと10年伸ばしてくれたら、いや、あと5年保ってくれたら、私は本当の絵描きになることができるだろう」と言ったと伝えられています。







茶道をデザインした千利休の意図



【名 前】 千利休(安土桃山:日本人)

生まれ 1522年(大阪府 堺市

死 亡 1591年4月21日(京都府 京都市


 どんなに位の高い人でも茶室にお辞儀をして入るように「躙り口」を考えた。 お茶を飲み比べて楽しんでいただけの文化を「身分を超えて、おいしいお茶を飲んでもらいたい。」そのためにどうしたらいいのかを考えた千利休は茶道をデザインした。



大坂城 山里丸茶室



 身分関係なく、お辞儀をして茶室を出入りするように「躙り口」を考案した。また、侍が刀を振り回すことができないように茶室内が最小限の造りになっている。







墓は寄り添っている兄弟



【名 前】 フィンセント・ファン・ゴッホ

生まれ 1853年3月30日(オランダ ズンデルト




画家フィンセント・ファン・ゴッホと弟テオの墓は寄り添っている。


フィンセント と テオの墓、オーヴェルス・シュール・オワーズ



 ゴッホの遺作『花咲くアーモンドの枝』 情熱的な絵を描き苦悩し続けているゴッホをいつも支えていた弟テオ。彼の生まれたばかりの息子のために春を待つかわいい希望の花を最後に描き残して亡くなった。


『花咲くアーモンドの木の枝』 1889年 フィンセント・ファン・ゴッホ


『星月夜』1889年 6月、サン=レミ ファン ゴッホ







才能は出会いで開花していく



【名 前】 パブロ・ピカソ

生まれ 1881年10月25日(スペイン マラガ

死 亡 1973年4月8日(フランス ムージャン



近代アートの巨匠パブロ・ピカソがわかると面白い



『アビニヨンの娘たち』 1907年-1908年


正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。ピカソは生涯に 2回 結婚 し、3人 の女性との間に 4人 の 子供 をもうけた。 「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間が

  かかったものだ」

「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ。」

 = 多重視点構造 ⇔単視点構造(ルネサンス以降の絵画)

ルネサンスから引き継がれていた遠近法を否定した。


『泣く女』 1937年


■『青の時代』のピカソ(1901~1904年)  1901年、友人の一人がこの世を去ってしまいます。とてもショックを受けたピカソは、貧困や孤独、絶望をテーマにした冷たい青色を多くつかった。

「盲人の食事」


「人生 La Vie」 1903年


■『ばら色の時代』のピカソ(1904~1907年)  暗い『青の時代』から急に明るい色調の絵画を描きだしたきっかけは、恋愛でした。 ピカソは1904年に オリビア という女性と出会い、付き合い始めます。サーカスや旅芸人を題材にした明るく、にぎやかな絵画を描いています。 この頃に描いた絵はよく売れ、ピカソ(23歳)は 有名な画家 になっていきました。

『サルタンバンクの家族』


『パイプを持つ少年』 1904年-1907年


 1907年、新しい恋人 エヴァ(本名はアンベール)。キュビズムの絵画に変化していった(ピカソ26歳)。

 

■キュビズムの時代(1907~1916年)  ピカソの絵画と聞いて思い浮かべるのは、このキュビズムの時代の絵画でしょう。1915年には恋人のエヴァが病気でこの世を去ってしまい、ピカソは一人になってしまいます。


『ヴァイオリンと葡萄』 1912年


■新古典主義の時代(1918~1925年)  ピカソは、キュビズムの絵画をずっと描いていたわけではありません。この時代はゆったりとした人物をイキイキと描いています。人物たちの形もまるくなっているのが特徴です。

 『海辺を走る二人の女』 1922年

   オルガ という女性と出会い、結婚します。1920年代の後半からは、オルガとの生活がうまくいかなくなります。ピカソ(39歳)はアトリエに閉じこもり、挿絵を多く描くようになりました。

■シュルレアリスムの時代(1925年~)  この時代から晩年にかけてのピカソの作品はシュルレアリスムの手法だけではなく、様々な手法を取り入れています。


『三人のダンサー』 1925年

 ピカソが46歳のとき、17歳のマリー=テレーズ・ワルテル という女性を出会い、付き合い始めます。  ピカソはオルガと離婚できずに長い別居生活が始まります。 マリーは1935年にマヤという女の子をうみます。ピカソはマヤがうまれた後に ドラ という女性と付き合いはじめます。  1936年からのスペインでの内乱をきっかけに、ピカソは1枚の絵を描きます。攻撃された町の名前を、そのままタイトルにした有名な『ゲルニカ』です。

 戦争の悲しみ、憎しみ、悔しさ、苦しさ…が表現された『ゲルニカ』。 ドイツ兵から「この絵を描いたのはお前か。」と聞かれた近代美術の巨匠ピカソは 「この絵を描いたのは、あなたたちだ。」と答えました。


『ゲルニカ』 1937年


 1943年、21歳の 女性画家フランソワーズ と付き合い、1945年にドラと別れました。フランソワーズと付き合っていたときのピカソ(62歳)は、絵画を制作しつつ、陶器もつくっていました。フランソワーズは1953年に子供をつれて出て行ってしまいます。  一時はショックを受けたピカソ(72歳)ですが、またすぐに別の女性 ジャクリーヌ と付き合いはじめ、2度目の結婚をします。 ピカソは一生の間に13,000点の絵画、100,000点の版画、34,000点の挿絵、そして300点もの彫刻を制作しています。 一日あたり2~3枚以上のペースで絵画や版画を制作していた計算です。

『鳥』 1948年



 ピカソの絵画で特に印象深いのが、キュビズムの時代です。そのため、ピカソの絵が難しすぎてよくわからないという人や下手な絵なのになぜか有名な画家、と思っている人も多いのは確かです。 ですがピカソの絵画の時代の移り変わりを見ていくと、ピカソはまさに天才だと実感できるはずです。ピカソの絵画は、全て考え抜かれて描かれているのです。ピカソはこんな言葉を残しています。

「なぜ自然を模倣しなければならないのか?それくらいなら完全な円を描こうとするほう

  がましなくらいだ」

〇アバンギャルド(反体制)   ※伝達手段の発達(映画)。  •キュビズム(多重視点構造⇔単視点構造)。 〇それまでの具象絵画が一つの "視点" 視点に基づいて描かれていたのに対し、いろいろな

  角度から見た物の形を一つの画面に収め、 ルネサンス以来の"一点透視図法" 一点透視図

  法を否定した。 〇ルネサンス以降の遠近法を放棄し、描く対象を複数の視点から3次元的に捉え、1枚の

  平面(2次元)の中に表現した。   ルネサンス以来の「単一焦点による "遠近法" 遠近法」の放棄(すなわち、複数の視点に

 よる対象の把握と画面上の再構成) 形態上の極端な解体・単純化・抽象化 を主な特徴と

する。 "フォーヴィスム" フォーヴィスムが色彩の革命であるのに対して、キュビスムは

  形態の革命である、という言い方をされることもある。要は、正面、横、後と色んなと

 ころから“見た目”を一場面にまとめたといったことがキュビズム。ちなみにフォーヴ

  ィスムは"キュビスム" のように理知的ではなく、感覚を重視し、色彩はデッサンや構図

  に従属するものではなく、芸術家の主観的な感覚を表現するための道具として、自由に

  使われるべきであるとする。  出会った女性たちや周りの友人、ライバルたちによって”天才ピカソの才能”も”独創的な作品”も造られていったといえる。


創造のコツは、それがどこから得たものかわからないようにすること。個性とは、選択して構築してきた情報の違い。独創性とは、心揺さぶられたこと、欲求、興味で選んで記憶している情報素材を新鮮な気持ちになれる組み合わせで再構成されること。


 ピカソは、友人(画家)のアトリエに招待されなくなっていった。それはピカソがライバルたちの新作を一目みただけで”模倣”ではなく完全に自分の作品として創造する力を持っていたからだ。他者の新鮮な情報を一瞬で理解し、自分の持っている情報と再構築して個性にしていった。





【マイノリティを描いたブルジョワ画家】


  フランスの画家。本名アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファ 1864年11月24日~1901年9月9日。

   当時低く見られていたポスターを芸術的な域に高めたことで有名だが、印象派の画家として多くの肖像画などを残しています。彼の死後、フランス南部のアルビにトゥールーズ=ロートレック美術館が建てられました。


 ロートレックのアートに対する情熱、あるいは執着は、自らが抱える身体的なコンプレックスに後押しされました。

   ロートレックは13~14歳のときに左右の足を相次いで骨折し、以来足の成長が止まってしまいます。いとこ同士だった両親の近親婚による遺伝的な疾患によるものだといわれていますが、同年代の若者と同じような活動ができない彼は、絵画に没頭するしかありませんでした。


  トゥールーズ=ロートレック


                                           やがてパリの画塾で勉強することになったロートレックは、モンマルトルに集う芸術家たちと出会います。しかし身長が低い彼は笑い者になり、酒や娼婦におぼれていきます。こうして彼はモンマルトルの丘の下で下級社会の人々の中に混じって、マイノリティである娼婦や踊り子たちを題材に絵を描いていったのです。

               『フェルナンド・サーカスにて』1888年 トゥールーズ=ロートレック

     『ムーラン・ルージュにて』 1892年 トゥールーズ=ロートレック

      『ムーラン・ルージュに入るラ・グリュ』1892年 トゥールーズ=ロートレック

 そんなロートレックのもとに、彼が通い詰めていたダンスホール「ムーラン・ルージュ」のポスター制作の依頼が舞い込みます。まわりの画家たちはその仕事を見下しましたが、彼は踊り子たちの名前を添えて、芸術的なポスターとして仕上げたのです。


 ポスター『ムーラン・ルージュのラ・グリュ』1891年 トゥールーズ=ロートレック

 『キャバレー・アンバサドゥールのアリスティード・ブリュアン』1892年 

 ポスター『ディヴァン・ジャポネ』1892年 トゥールーズ=ロートレック




【美術教育を受けていない副業画家】

 パリの税関の下級役人として働き、休日に絵を描いていた「日曜画家」ルソーは、ジャングルをテーマにした作品をいくつも描きました。

          『熱帯嵐のなかのトラ』1891年 アンリ・ルソー


 都会育ちの彼は、パリ万国博覧会で再現されていたフランスの植民地(セネガルやタヒチ)の、ジャングの風景に感動したようです。 その未知の世界観あこがに憧れを抱くようになった彼は、動物の写真集と近くの植物園で描いたスケッチ、そして実際に旅行してきた知人の体験談を聞いて、彼独特の画法と想像力でこの作品を描き切りました。そこには、本当に体感してきたような緻密さとリアルさがあります。           伝統的な遠近法や明暗法、色彩論、写実表現にとらわれない自由な画法。しかし、ルソーのように自己流で絵を描いていた人たちは「素朴派」と呼ばれ、独学で描いた絵は、ほかの画家たちに「へたくそ」とバカにされ、批評家たちの笑いものにされました。

        『フットボールをする人々』1908年 アンリ・ルソー


 アカデミックな美術教育を受けていないルソーにとっては「その描き方しか知らない」だけのことですが、そんなルソーを伝統的なアートセオリーを否定し、次々と新しい表現にチャレンジしていた前衛画家のパウロ・ピカソは、高く評価していました。 当時の芸術界では唯一無二の存在であったルソー作品は、評論家たちもどう評価してよいかわからなかったのに対して、「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ」と語っていたピカソにとっては、ルソーの独創的な絵画表現に新しい価値を見出し、刺激を受けたのでしょう。 副業画家のデビューは遅く、彼の世界的に知られる名画はすべて50 歳を過ぎてから描いた作品です。


         『私自身、肖像=風景』1890年 アンリ・ルソー




【癒しを与えた画家】


 『私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい』画家 アンリ・マティス。身の丈を超す巨大な観葉植物が立ち並び、テーブルの上には多様な花でいっぱいの植物園のような 自分にとって心地よい空間、創作環境で数々の傑作を生みだしていました。



『食卓-赤の調和』 1908年 アンリ・マティス


『かたつむり』1952-53年 アンリ・マティス


 人の生き方に正解や決まった道はなく、共感できることは 嬉しかったり、喜べたり、安心できたりすることで心揺さぶられることが大切だと考えています。ちょっとした”気づき”ひとつで、毎日 情動、感動が湧き起こります。

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