『忘れっぽい天使(Vergesslicher Engel)』1939年 Paul Klee
絵を描くことは、 絵のプロになるためだけに必要なことではない。
絵の描き方を習うということは、じつはものの観方、多角的な考え方、伝え方を学ぶということであり、それはたんに目で見るよりもずっと多くのことを意味している。
よく観て繰り返し絵を描くことで 本当のことに気づいていく。
何か才能や技術がないと創作、表現をすることが出来ないと勘違いをしている方がたくさんいる。
絵にしても小説にしても遊びにしても大切なのは突き動かす衝動であり、その衝動を誰かに伝えたいという欲求があること。
アニメーションは
「命を吹き込む、活気」といった意味がある。
『トーイストーリー』 ピクサー映画
イラストレーションは
「分かりやすくする(もの)」という意味がある。
『ハートカクテル』 わたせせいぞう
デッサン [dessin:仏] とは
物体の形、明暗などを平面に描画する美術の制作技法、過程、あるいは作品のこと。
※ドローイング[drawing:英語]は線描画の作品も示す。
•語源【ラテン語 designare [デジナーレ]】は「デザイン」と同じで
” 計画を記号に表す、図案、設計図”といった意味をもつ。
見たことや考えていることを絵に描いて伝えること。
トリノ王宮図書館が所蔵するレオナルドの自画像(1513年 1515年頃)
『人体スケッチ』 ミケランジェロ・ブオナローティ
写実表現の発展
ルネサンス期の解剖学や絵画技法(遠近法・明暗法 etc.)、画材の発展により、精度の高い写実表現が可能になり、デッサンの芸術性が高まっていった。
『布のデッサン』 レオナルド・ダ・ヴィンチ
【クロッキー[croquis:仏]:情報収集】
人物や動物など”動き”のあるものをごく簡単に描いた絵
『ヤギのクロッキー』 ヘンリー・ムーア
【エスキース[esquisse:仏]:発想・情報整理】
※スケッチ[sketch:英]
構想している計画や企画を具体的に展開していく絵
眼に写ったかたちや頭の中のアイデアをごく簡単に記録する絵
レオナルド・ダ・ヴィンチ 『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』 1499年 - 1500年頃
【エチュード[étude:仏][ 習作:日本]:展開】
ものごとの構造や状況・状態を見極められる絵
レオナルド・ダ・ヴィンチ 『女性の手の習作』
レオナルド・ダ・ヴィンチ『子どもの研究』 アカデミア美術館素描版画室
ミケランジェロ 『リビヤの巫女のための習作』1510年頃
デッサン力は
基礎からステップアップとして順番に学んでいくのではなく、自分の目的に合わせて必要なアプリを集めていく感覚でアートのファンダメンタル(基本要素)を組み合わせていくとよい。
※基本要素
【プロポーション(比例/均衝/動感)/パースペクティブ(奥行感)/構図/バリュー(光と影)/シェイプ(単純化の程度)/質感など】
を目的に合わせた組み合わせ(情報量)ることで、リアリティ(クロッキーから細密描写
まで含む)を増していける。
イメージできれば描くことができる
逆に頭の中で具体的にビジュアルが思い浮かべられないと描けない。
『レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿』より
『レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿』より
『レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿』より
「写実」とは
見えているものだけを描くことではない。対象(モデル/モチーフ)のもつ歴史的背景や性質までも読み解いて理解したことを描いているといえる。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『ほつれ髪の女性』 1508年頃 パルマ国立美術館
絵画技法の発展
画材とそれを使う技法は、かなり直接的に美術表現に影響を及ぼした。
画材と技法
【モザイク技法】
種々の色の鉱物などの細片をすきまなく敷き並べて、壁画や床を装飾する芸術の技法。
モザイク 語源 Mousai(ミューズ) ラテン語(=ミューズ神/芸術的な)
『随臣を従えたユスティニアヌス帝』547年
ラヴェンナのサン=ヴィターレ聖堂のモザイク画
【フレスコ技法】 下地の漆喰(しっくい)が乾かないうちに、水だけで溶いた顔料で描く技法。
フレスコ fresco イタリア語(=新鮮な)
『エジプトへの逃避』1315年-1320年 ジョット・ディ・ボンドーネ
サン・フランチェスコ聖堂
【テンペラ技法】
乳化作用を持つ物質を固着材として利用する絵具、及び これによる絵画技法。
テンペラ tempera イタリア語(=混ぜ合わせるという意味)
『春(プリマヴューラ)』1482年 サンドロ・ボッティチェルリ
【油絵技法】
15世紀、ファン・エイク兄弟が油絵の技法を完成させた。
※油彩の最大の特徴は比較的乾燥が遅い為に修正がきくこと。修正がきくことから、
カンヴァスや板に直接色彩で描くことが可能になった。
※フィレンツェのデッサンに彩色する技法に対し、ヴェネツィアで初めから色彩で
描いていく技法が生み出された。
『アルノルフィニ夫妻の肖像』1434年 ヤン=ファン=アイク
・作者が絵の真ん中に書き込んだ文字
Johannes de eyck fuit hic 「ヤン=ファン=アイクここにありき」 ・現代でいえば、署名入りの写真に法的な効力があるようなもの。
西洋の宗教絵画(キリスト教美術)の寓意
どの色が使われているか、何を描いているかで西洋絵画の読み解きができる。
【色の意味】
赤=慈愛・殉教・権力
黄=異端者・邪悪さ
白=純潔・無垢
黒=禁欲・死 緑=希望・恋
青=誠実さ・悲しみ
多色、縞=社会の規範を乱す者
【描かれるものの意味】
白鳥=音楽や愛
ドラゴン=災いをもたらす邪悪な存在。異教徒。
兎=多産と色欲。聖母マリアの足元に描かれる時は色欲が純潔に打ち負かされること。
羊=純真・神への犠牲。
鳩=清純さや犠牲の象徴。平和や愛。
牛=生け贄。人類の犠牲となったイエス。
ユリ=聖母マリアの純潔を象徴する花。
バラ=愛と美。聖母マリアの純潔の象徴
ブドウ=イエスの生命の象徴。血を表す。
サクランボ=イエスの受難と聖餐(キリスト教の儀式:最後の晩餐など)の意味。
『うさぎの聖母』1530年頃 ティツィアーノ
これらの意味を知って、西洋絵画を見直すと発見があり、よく分からなかった古典絵画でも楽しめる。
ルネッサンス3大巨匠(フィレンツェ派)
ルネッサンス3大巨匠のダ・ヴィンチとミケランジェロ、ラファエロとの仕事への取り組み方、人生を比較すると実に面白い。
ミケランジェロはこもりがちな性格で一途に仕事をするタイプ。ラファエロは37才位で死ぬが、社交的で社交界の花。宮廷、財閥らパトロンに引っぱりだこのナイスガイであった。ダ・ヴィンチはパトロンからの仕事も中途半端で完成させず、二人の巨匠とは正反対の生き方をしていたと言える。
ラファエロが20歳のころ、ミケランジェロは28歳、ダ・ヴィンチは51歳。短気で気難しいミケランジェロのライバルで、気立てのいい芸術家。
ラファエロ ミケランジェロ ダ・ヴィンチ
”貪欲な芸術家”彫刻家・建築家・画家ミケランジェロ・ブオナローティ
1475年-1564年(享年89歳)
【ミケランジェロの名言】
「どれだけの労力を注ぎ込んだかを知れば、天才なんて呼べないはずだ。」
「最大の危機は、目標が高すぎて失敗することではなく低すぎる目標を達成することだ。」
「やる価値のあることなら、たとえ最初は下手であってもやる価値がある。」
「余分の大理石がそぎ落とされるにつれて、彫像は成長する。」
「絵は頭で描くもの。手で描くのではない。」
「おおよそ完全無欠な仕事というものは、多くの小さな注意と、小さな仕事とが相集って
成る。ゆえに大事を完成するものは、細心の注意と努力。」
「ささいなことが完璧を生む。しかし、完璧はささいなことではない。」
『システィーナ礼拝堂 天井画』1508-12年 バチカン
『最後の審判』1536-41年 ミケランジェロ・ブオナローティ
”社交界の華”画家・建築家ラファエロ・サンツィオ 1483年-1520年(享年37歳)
彼は、クアトロチェント(15世紀)の多くの芸術家たちの念願だった、自然の忠実な描写ということに固執してはいなかった。彼は心に浮かぶ不変の型に意識的に従おうとした。
ラファエロ・サンティ 『ガラテイアの勝利』
”万能の天才”レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452年-1519年(享年67歳)
イタリア・トスカーナ地方の小さなビィンチ村に生まれる。
イタリア・ルネッサンス期の三代巨匠の一人「最後の晩餐」「モナ・リザ」などで誰もが
知っている画家であるが、実は環境の観察に膨大な時間を費やしていた科学者でもある。
凡庸な人間は「注意散漫に眺め、聞くとはなしに聞き、感じることもなく触れ、味わうことなく食べ、体を意識せずに動き、香りに気づくことなく呼吸し、考えずに歩いている」と嘆いていた。
「最も高貴な娯楽は、理解する喜びである。」
「あらゆる楽しみの根底には、感覚的知性を磨くという真面目な一面がある。」
と多岐にわたり関心を持ち、絵に描いて研究していました。
遠近法(透視図法) ※消失点の発見を実証した絵
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
『最後の晩餐』1495年-1498年 レオナルド・ダ・ヴィンチ
写実絵画の発展
ルネサンス期の解剖学や絵画技法(遠近法・明暗法 etc.)、画材(油彩)の発展により、
精度の高い写実表現が可能になり、デッサンの芸術性が高まっていった。
『モナ・リザ』1503年 - 1505 1507年 レオナルド・ダ・ヴィンチ
・スフマート技法:輪郭線をぼかすことで立体感を出す技法
※スフマート(sfumato)とは、境界をはっきりとした輪郭線でなく、ぼかして描く事 を
絵画技法では指す。
・遠近法:空気遠近法
・遠近法:透視図法:『モナ・リザ』左右の風景がつながらない
フィレンツェ派とヴェネツィア派
◎「キッチリと描く」フィレンツェ派:ボッティチェリやミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、
ラファエロなど
※きっちりとしてメリハリがあるのは、デッサンを重視していたから
※最大の魅力は知的さ:サイエンス
◎「伸び伸び描く」ヴェネツィア派:ティツィアーノ・ヴェチェッリオ
※デッサン(素描)をしないで、そのままキャンバスに絵具で描く方法を多用。
明暗の調子を色彩で表現し、流動的であいまいな線によって伸び伸びとした感じや
全体の空気感や雰囲気を表現しようとした。
※最大の魅力は大らかさ:感性
ルネサンス期(ヴェネツィア派)の芸術家
” 星々を従える太陽”画家ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 1488-1576
・イタリア ヴェネツィア派の画家
・肖像、風景、古代神話、宗教などあらゆる絵画分野に秀で、絵画技法は筆使いと
色彩感覚に特徴があり、イタリアルネサンスの芸術家だけではなく、次世代以降の
西洋絵画にも大きな影響を与えた。
『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』1515年頃 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ
サロメ(ユディトとも)を描いたこの宗教画は、彼が発展させたジャンルで
ある理想化された女性の肖像画とされ、ヴェネツィアの高級娼婦をモデルに
しているともいわれる。
” 革新的な画家”アントニオ・アッレグリ・ダ・コレッジョ 1489-1534
・主に宗教画を描いたが、晩年の神話画によって特に有名である。
・長命ではなかったがパルマの芸術文化において革新的かつ中心的な役割を果たし、後に
多大な影響を与えた。
・パルマでの絵画制作の報酬の銅貨60枚を背負って徒歩で故郷へ帰ろうとした。
しかし太陽の熱に打たれた熱で倒れ、そのまま回復することなく世を去った。
パルマ大聖堂(スペイン丸天井画)『聖母被昇天』1522-1530年
”謎に満ちた画家” ジョルジョーネ 1477-1510
・ヴェネツィアで活動したイタリア人画家
・西洋絵画の歴史のなかでももっとも謎に満ちた画家の一人。ティツィアーノの師
だったともいわれている。
・形容しがたい詩的な作風の画家として知られているが、確実に彼の絵画であると
見なされている作品はわずかに6点しか現存していないともいわれている。
『モーゼの火の試練』1500年頃 ジョルジョーネ
写実表現のお手本
ルネサンス期の芸術家 (ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ティ ツィアーノ、コレッジョ、ジョルジョーネ、北方のデューラー、ホルバイン、その ほか数々の名高い巨匠たち)が発展させた絵画技法(遠近法 ・明暗法 etc.)が、 後世の写実表現のお手本となっている。
光と影は
立体感や奥行を伝えるための大切な要素だが、その邪魔をすることもある。
光と影には、印象を左右する“ムードメイカー(照明効果・演出)”の作用がある。
”舞台のような絵画”画家ジョルジョ・ド・ラ・トゥール 1593年-1652年
・フランス古典主義画家
・作風は、明暗の対比を強調、単純化
・平面化された構図や画面にただよう静寂で 神秘的な雰囲気。
※18世紀には忘れ去られ、20世紀初頭(1915年)に再評価され、あらためて
注目された。
ラトゥール画『悔悛するマグダラのマリア』
※古典主義
・劇的なバロック様式がヨーロッパ全土に波及した 1600 年代にあっても、フランス人
には均衡と調和を求める傾向があった。
・ヨーロッパでギリシャ・ローマの古典古代を理想と考え、その時代の学芸・文化を
模範として仰ぐ傾向のこと。
・均整・調和などがその理想とされる。
・イタリアのルネサンスは古典古代を復興しようとする文化運動であった。これは各国に
大きな影響を与えた。
バロック絵画
・バロックという語は
”真珠や宝石のいびつな形”を指す「barroco(ポルトガル語)」からきている。
・ヨーロッパ諸国の絶対王政を背景に急速に広まった美術・文化の様式。
・絶対王政の時代
中世までの諸侯や貴族、教会の権力が地方に乱立し、分権的であった状態から
王が強大な権力を持って中央集権化を図り、中央官僚と常備軍(近衛兵)によって
国家統一を成し遂げた時代に特徴的であった政治形態を指す。
・宮廷画家の活躍
”絵で光と影の演出革命を起こした”
画家カラヴァッジョ 1571年-1610年
イタリア人画家 ・ローマ、ナポリ、マルタ、シチリアで活動。
卓越した描写、ドラマティックな明暗、人物ひとりひとりの感情の巧みな表現は、 後世の画家たちに影響を与えた。
ローマ・カトリック教会の改革運動を背景とした革新的な表現。
バロック美術の先駆者としての役割を果たした。
『聖マタイの召命』1600 年 カラヴァッジオ
”宮廷画家・外交官の成功者”
ピーテル・パウル・ルーベンス 1577年-1640年
・フランドルの画家
・祭壇画、肖像画、風景画、神話画や寓意画も含む歴史画など、様々なジャンルの絵画作品
を残した。
・七ヶ国語を話し、外交官としても活躍してスペイン王フェリペ4世とイングランド王チャ
ールズ1世からナイト爵位を受けている。
・肖像、寓話、歴史、聖書など題材にとらわれない実験的な多くの自画像と作品を描いた。
『聖母被昇天』 1625 – 1626 年 ルーベンス
”王の側近“宮廷画家ディエゴ・ベラスケス 1599年-1660年
・スペインの宮廷画家
・職人→貴族
・宮廷装飾の責任者
・貴族や王の側近
※エドゥアール・マネ(印象派の父)が「画家の中の画家」と呼んだ。
『ラス・メニーナス』1656 年 ディエゴ・ベラスケス
・舞台はフェリペ 4 世のマドリード宮殿の大きな一室である。
・スナップ写真のごとく、瞬間的に切り取って、写し描いてみせた。
・スペイン宮廷人(人物も特定されている)の様子。
・観賞者と絵の登場人物との間にぼんやりした関係を創造する。
ディエゴ・ベラスケス
”悩めるストーリーテラー”
画家レンブラント・ファン・レイン 1606年-1669年
・ネーデルランド(オランダ)の画家
・オランダ黄金時代(17世紀のオランダを示す)のフェルメールと並ぶ代表する 一人。 ・当時、依頼されたとおりに描く絵画が求められていた中で、独自のストーリー性を重視し
た表現が後世に評価される。
・カラヴァッジョの明暗技法を学び、「光と陰の魔術師」と呼ばれる。
・肖像、寓話、歴史、聖書など題材にとらわれない実験的な多くの自画像と作品を
描いた。
集団肖像画
『フランス・バニング・コック隊長の市警団』 1642 年 レンブラント・ファン・レイン
※集団肖像画 とは
・数人から20人ぐらいまで様々な立場の人たちが、集団肖像画を依頼した。
・集団で描いてもらうため一人当たりの画料は安く済むというのが当時の集団肖像画が流行
った最大の理由。
・一人一人が同じ料金を払うので画家はそれぞれを公平に描かなければ
ならない。
・そのため整列した状態で描くことが多く、作品としての評価は低く面白みの無いものであ
った。
※各人物をはっきりかつ公平に描く当時の集団肖像画の典型
ミヒール・ファン・ミーレフェルト作
『デルフトのファン・デル・メール博士の解剖講義』
レンブラント・ファン・レイン 作
『テュルプ博士の解剖学講義』 1632 年
【レンブラント自画像群】
レンブラント・ファン・レイン のライフワーク。
若い頃から最晩年まで新しい絵画表現の試みをまずは自画像制作によって実験を繰り返し
貪欲にチャレンジていた。
『自画像 』 1629年
『放蕩息子の酒宴』 1635年頃
1640年
1658年
『パレットと絵筆をもつ自画像』1662年
『聖パウロに扮した自画像』 1662年
『ゼウクシスとしての自画像 笑う自画像』 1669年
1669年
“天文学の父“ガリレオ・ガリレイ 1564 - 1642
・イタリアの物理学者
・科学者ガリレオ・ガリレイが低倍率の望遠鏡(自作の「くっ折望遠鏡」)で月のクレー
ター(凸凹)を発見できたのは 彼が水彩画を描くことで 陰影により奥行きや 立体を表現
していく観察眼を身につけていた。
『月のスケッチ』 ガリレオ・ガリレイ
・芸術的な素養としての美意識を磨いている人は、サイエンスの領域でも高い知的パ フォ
ーマンスを上げている。
”母国の郷愁を描いた画家”カミーユ・コロー 1796 -1875
あえて民族衣装をまとわせ人物画を描いた19世紀フランスの画家カミーユ・コロー。風景画を描くときも民族衣装を着た人物を画面に入れ、時代劇の一場面のような絵を描いた。 母国の文化を大切に思い、現代人が自分たちのルーツを忘れないように努力した。
・新古典主義、写実主義、バルビゾン派の画家
・風景画家として名を馳せたが『真珠の女』のような肖像画の傑作も残している。
『真珠の女』1870年 カミーユ・コロー
・見たままの自然を描いているのに、そこに登場する人物は民族衣装を着ているのも特徴の 1 つ。こうした演出によって、鑑賞者は、自然の風景を見ているだけなのにまるで時代劇の舞台を見ているかのような感覚におちいる。
『モルトフォンテーヌの思い出』1864 年 カミーユ・コロー
”理想よりも現実を描いた”画家ギュスターヴ・クールベ 1819-1877
・フランスの写実主義の画家。
・新古典主義やロマン主義と対立した写実主義の創始者。
・名も知れない庶民の葬式を、威厳をもって描き、当時の美術界に衝撃を与えた。
・「目に見えるものしか描かない。」
『黒い犬を連れた自画像』1842 年 ギュスターヴ・クールベ
『オルナンの埋葬』1849 年 ギュスターヴ・クールベ
『出会い(こんにちは、クールベさん)』1854 年 ギュスターヴ・クールベ
”保守と革命が共存する画家”画家エドゥアール・マネ 1832-1883
・フランスの画家。
・理想化された人々や癒しの風景ではなく、19 世紀当時の「現代社会」そのものを描 いた
最初の画家の 1 人。
・ブルジョワ出身にもかかわらずレールに乗った人生を歩むのでなく、絵の世界に没頭し
た。
・印象派の父
・伝統的な明暗法や遠近法といった絵画技法にとらわれない平坦な作風が特徴。
『バルコニー』 1868-9 年 エドゥアール・マネ
マネが参考にした『バルコニーのマハたち』 1810-15 年 フランシスコ・ゴヤ
マネの新しい理論
・戸外の光のもとでの色の扱いを問題にした「外光派」。
・動くものの形という問題にも取り組んだ。
『ロンシャンの競馬』リトグラフ 1865 年 エドゥアール・マネ
・混乱の中から浮かび上がってくる形らしきものを示すことで、光と速度と運動を印象づけ
ようとしている。
・マネは物の形を再現するのに、知識に頼ることを強く拒否した。
・一瞬の「真実」を描いた。
・こんな時に馬の4本の脚、観客の様子などいちいち目に入らないものだ。
・現実の場面では、どの瞬間をとっても私たちの目にはひとつの点に集中していて、それ
以外の物は、ばらばらな形の寄せ集めにしか見えない。
『ボートの上で写生するモネ』 1874 年 エドゥアール・マネ
・自然の中の「モチーフ」は、雲が陽をさえぎったり、風が水に映る影をゆがめたりするた
びに、刻々と変化する。
・これぞという局面をとらえようとすれば、絵具を混ぜて調合したり、何層も重ね塗りを
したりする暇はなく、すばやい筆さばきが必要になる。
・細部よりも全体の効果に気を使うことになる。
・完成とは言い難い、一見ぞんざいな画風が、批評家たちを怒らせた。
・異端的な絵は、どうしても「サロン」に受け入れてもらえなかった。
『笛を吹く少年』1866年 エドゥアール・マネ
ブルジョワ出身であるマネは、古典芸術や芸術家、特にベラスケスやゴヤなどスペインの巨匠たちに強い尊敬の念を抱いていた。
マネが描いた『笛を吹く少年』は、ベラスケスの描いた肖像画に感銘を受けて描いたもの。
また、平面的で明快な色使いなど浮世絵の影響を受けて斬新な表現を取り入れている。
『ビードロを吹く女』1790-91年 喜多川歌麿
印象派の勝利に導いた二つの援軍
◎ヨーロッパ絵画の基本法則が大胆に無視されている日本の浮世絵 ・モチーフや色使いな
どヨーロッパの画家が、伝統をどれほど背負わされているかがわかった。
◎「写真」の普及 ・画家たちを独自の探求と実験に駆り立てた。カメラは、ふとした一瞬
の情景のもつ魅力や、思いがけない方向から見た面白さなどに気づかせてくれた。画家
たちは写真が太刀打ちできない領域を探らざるをえなくなった。
※写真では写せない絵を描こうとした新古典主義の画家ドミニク・アングル。
『グランド・オダリスク』 1814 年 ドミニク・アングル
絵でしか描けないプロポーション
横たわる全裸の美女という構図は、伝統的に画家に好まれ描かれているポーズだが、写真では表現できないインパクトを出すために、極端に大きく捻じ曲げたうなじと背中を描いた。解剖学に精通していたアングルだからこそ、伝統的なテーマである裸婦の理想的な美しさのバランスを壊さずに描いている。
新古典主義の画家アングルにしかできない絵画表現と、写真とは異なる写実絵画を追求したのです。この絵は批評家や美術愛好家たちには理解されず、大きな批判を浴びましたが、アングルは時代に挑戦しつづけた。
サイエンスに刺激された印象派の画家
画家エドガー・ドガは、アングルを尊敬し写実主義を主張しながらも、写真の構図を取り入れた絵画表現や新しい題材を探求していった。その後も写真技術や映写機などといったサイエンスの進歩に刺激された画家たちによって、新しいアートは花開いていった。
”現実の社会を描く画家”エドガー・ドガ 1836-1917
・フランスの画家。
・マネを中心とする印象派グループ「カフェ・ゲルボワ」に参加していたが、古典的 な
画風を目指した。
・室内から戸外まで多く描き残しているが、バレエを題材にした絵が有名。
・晩年は目の病気を患って視力が弱くなり、油絵より画面に目を近づけて描けるパステル画
の制作が多くなった。
『オーケストラ席の音楽家たち』1870 年 エドガー・ドガ
・ドガは観客としてバレエの舞台で舞う踊り子の姿を観るのではなく、舞台裏の「バ レエ
界の真実」を描こうとした。
・画面の中央で美しく優雅に舞う花形バレリーナに対し、そのまわりにいるライバルである
踊り子たちの表情からは競争、嫉妬となどが感じられる。
・踊り子たちを援助しているパトロンたちの姿もあり、様々な人間模様が垣間見られる。
・そんな練習中の舞台の袖からドキュメンタリー映像のような視線で真実を描いた。
『三人の踊り子』1873年 エドガー・ドガ
『ダンス教室(バレエ教室)』1873 年-1875 年 エドガー・ドガ
『出番を待つ踊り子たち』1879 年 エドガー・ドガ
ドガの絵に物語はない
踊り子たちのかわいさや、少女たちの醸し出す雰囲気が気に入っていたのでもなく、 風景として客観的な目で冷静に眺めた。彼にとって大事だったのは、光と陰の交錯する人体であり、運動や空間の感じをどう表現するのかだった。
”移りゆく一瞬の光をとらえた画家”クロード・モネ 1840-1826
・フランスの印象派を代表する画家。
・日本美術の影響が見られる作品も多い。
・特に19 世紀末の作品は、葛飾北斎などの浮世絵に着想を得たと思われるものが多数残さ
れている。
・晩年は白内障を患いながらも絵を描き続けた。
・モネはターナーの作品を知っていた。
『サン・ラザール駅』1877 年 クロード・モネ
風景画のモネ、人物画のルノワール
印象派の画家であるモネとルノワールは長生きしたおかげで、パリに生まれた新しい絵画表現を世界的に知らしめた勝利の成果を晩年にたっぷり味わい、尊敬されるようになった。
若きモネたち、才能ある印象派画家が描く絵を当時、憤慨し嘲笑していた批評家たちは自分たちのいい加減さを証明し、美術批評は権威を失う破目になり、二度と失地を回復することはなかった。
『印象・日の出』1872年 クロード・モネ
若き二人の作品は売れず生活は困窮していたが互いに助け合う日々を過ごしていた。その頃、芸術家にとっては公式美術展覧会サロン・ド・パリで入選することが憧れだったが、古き慣習と権威を守ろうとする美術批評は美術の革命家といえる若き画家たちが描く絵に憤慨し嘲笑して認めようとはしなかった。
そんなサロンに対抗して、モネら画家たちが1874年にグループ展を開催したが、出品された絵は「勉強不足だ」「未完成だ」などと酷評された。
印象派の最初の頃の展覧会を取り上げた、ジャーナリズムの論評
“ペルティエ通りは御難つづきである。オペラ座の火事の後、新手の災難の登場だ。デュラン=リシェル画廊で展覧会が始まったばかりだが、主催者によれば中身は絵画だという。中へ入ると、私は恐ろしいものを目にしてすくみ上った。
女性ひとりを含む5、6人の頭のおかしい連中が集まって、自分たちの作品を展示している。人びとは絵を見て大笑いしていたが、私の心は痛んだ。
彼ら、画家気取りの連中は、自分たちのことを革命家と称し、「印象派」だと公言している。連中ときたら、カンヴァスと絵具と筆を用意し、カンヴァスの上にあちこち出鱈目に絵具を塗りたくって、はい、出来上がり、と署名する。精神病の患者が道端で石ころを拾って、ダイヤモンドを見つけたと思いこむのに似た錯覚である。”
絵に印象しか描かれていないと感じた批評家ルイ・ルノワは、侮辱的な意味でモネの絵のタイトル「印象派」を引用して「印象派たちの展覧会」という記事を書いた。しかし、モネたちは自分たちを表す言葉として自ら使うようになる。
そんな中、モネとルノワールは互いに才能を認め合い、スケッチ旅行を共にするなどして絵画表現を磨き続けた。
『ラ・グルヌイエールにて』 1869年 ピエール=オーギュスト・ルノワール
二人は切磋琢磨しながらもそれぞれ自分の良さに気づいていき、モネはたくさんの風景画を描き、対照的にルノワールは自分の家族や友達などの人物画を中心に描いて後世では「風景のモネ、人物のルノワール」と呼ばれた。
『積みわら、夕陽(積みわら、日没)』1890年 クロード・モネ
『ムーランド・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』1876年
ピエール=オーギュスト・ルノワール
モネは晩年に白内障を患いながらも、自分で造ったお気に入りの庭を散歩しながら、絵具の色を嗅覚で嗅ぎ分けて絵を描き続けた。
モネの庭
絵を描くこと
生涯、修行ではなく楽しみ続けた画家 印象派の巨匠、病床のピエール・オーギュスト・ルノワールは 最後に”美”と”はかなさ”の象徴であるアネモネの絵を描き残した。
「ようやく何かがわかりかけた気がする。」という言葉を残し、78歳で亡くなった。
『アネモネ』1916年 ピエール=オーギュスト・ルノワール
”完璧な調和を求めた画家”ジョルジュ・スーラ 1859-1891
・フランスの画家。
・パリの裕福な中産階級の家庭に生まれる。1878 年、エコール・デ・ボザール(国立美術
学校)に入学するが、兵役のため 1 年ほどで学業を中止する。
・完成作を仕上げるまでに多数の素描や下絵を制作して、入念に構想を練った。
・印象派の画家たちの用いた「筆触分割」の技法に光学的理論を取り入れた結果、点描と
いう技法にたどりついた。
『グランド・ジャット島の日曜日の午後』1884-86 年 ジョルジュ・スーラ
印象派の画家たちの用いた”色彩(筆触)分割”とは
・太陽の光を構成するプリズムの7色を基本とし、しかもそれらをおたがいに混ぜないで
使用するという技法。
・絵の具の色というのは、混ぜれば混ぜるほど黒に近くなり、明るさが失われていくが、
戸外で描き、自然の光を忠実に捉えたかった印象派の画家たちは、混ぜると暗くなる
絵の具を「混ぜない」ことで明るさを表現しようと考えた。
”感情表現の先駆けとなった画家”フィンセント・ファン・ゴッホ 1853-1890
・オランダの画家。
・後期印象派。牧師の父をもち、自らも聖職者を志したが挫折して画家となる。
・37 年という短い生涯のうち、絵を描いていた期間は 10 年間に過ぎない。
・全身全霊をこめて描いたような激しい筆づかいや色彩は、当時の美術界はもとより、
いまなお見る者すべてに強烈な印象を残している。
『ひまわり』1888 年 8 月アルル フィンセント・ファン・ゴッホ
『糸杉のある麦畑』1889 年 フィンセント・ファン・ゴッホ
『星月夜』1889 年 6 月 フィンセント・ファン・ゴッホ
フランス サン=レミ=ド=プロヴァンス
見えないものを描いた意味
・ゴッホが最晩年を過ごした南フランスの精神病院で描いた傑作。
・きらめく星に生命が宿っているかのように自分の思うまま絵筆を動かし、絵具をうずまき
状に厚く重ねて描くことで画面に力強いリズムが生み出されてい。それ までゴッホが描
き続けていた生命力がここにも表現されている。
・病院からは実際には見えない教会や墓を表す糸杉が、画面に描き入れられている。死を
暗示する糸杉を美しいと感じていた、当時のゴッホの精神状態と人生観が込められた絵。
クリエイターは色んな側面を持つ
生命力にあふれる『ひまわり』の絵で有名なゴッホは、彼を支えてくれた弟テオの生まれたばかりの息子のために、春を待つ希望の花『花咲くアーモンドの枝』を最後に描いた。
『花咲くアーモンドの木の枝』 1889年 フィンセント・ファン・ゴッホ
”脱サラ芸術家”ポール・ゴーギャン 1848-1903
・フランスの画家。後期印象派。
・実業家として活動する合間に絵を描くようになり、パリに住む印象派の画家たちと交流す
るようになる。
・絵を描いて生きることへの思いが日増しに強まり画家へ転身。
・ゴッホとの 9 週間の共同生活が破たんした後、タヒチに滞在し現地の人々を題材に画家
として活動する。
『テ・レリオア(白昼夢)』1897 年 ポール・ゴーギャン
反印象派の立場
・印象派の色彩分割に異議を唱え、総合主義を提唱した。
・総合主義とは、芸術は「自然形態の外観」と「主題に対する画家自らの感覚」、そして
「線・色彩・形態についての美学的な考察」を総合したものとする主張。
・主観と客観を一つの画面に総合して描こうとした。
・単に見たまま、感じたままを描いた印象派への反発。
・「あまり忠実に自然を写してはいけない。芸術とは一つの抽象なのだ。」
『タヒチの女(浜辺にて)』 1891 年 ポール・ゴーギャン
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
1897-1898 年
”近代絵画の革命児”ポール・セザンヌ 1839-1906
・フランスの画家
・当初はクロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに印象派のグルー
プの一員として活動していた。
・1880 年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を
探求した。
新解釈の探求
「絵画とは『色と形』の芸術である」
「何を描くではなく、どのように描くか」
『静物』1879-82 年 ポール・セザンヌ
『リンゴとオレンジのある静物』 1895-1900 年 ポール・セザンヌ
古典技法とセザンヌ画法
・油彩の古典技法では、まず下地を黄土色や茶色の絵の具で塗る。こうして陰の部分を先に
描いていく。次に赤色や青色などの有彩色で明るい部分を描き重ねていく。そして最後に
鮮やかな色で細かい部分を描き込んで仕上げていく。
このようにして描く古典絵画は、明るい部分ほど絵の具が厚く重なり、暗い陰の部分ほど
絵の具の層が薄い。
・一方セザンヌは、遠近法や明暗法などの古典技法のセオリーにこだわらなかった。陰の
部分にも有彩色を使い、彩度の違いを利用して奥行きを表現したり、ものの重なりで前後
関係を描いたりした。
「何を描くではなく、どのように描くか」にこだわって独自の画法で新しい絵画を生み出
していった。
『ベルヴュから見たサント=ヴィクトワール山』1885年 ポール・セザンヌ
『サント・ヴィクトワール山』 1904 年 ポール・セザンヌ
『大水浴図』1906年 ポール・セザンヌ
近代美術から現代美術へ
・セザンヌと同時代の画家たちは、学びたい画家の作品を所有している。たとえばピカソは
セザンヌの水浴図の版画を所有していたし、ゴーギャンやモネもセザンヌの作品を所有し
ていた。いまのような情報社会ではないため、実際に手に入れて直に学ぶ必要があった。 ・ピカソの絵『アヴィニョンの娘たち』は、セザンヌの「絵で何ができるか」という考え方
に影響を受けて描いた絵。ダ・ヴィンチの絵に見られる、平面上に奥行きを見せる遠近法
を使って描いてきた西洋絵画の枠組みから完全に逸脱している。
・セザンヌが絵に多視点や幾何学を持ち込み開いた新しい絵画の扉を、ピカソはキュビズム
の発展につなげ、その扉をさらに大きく開いていった。この絵をきっかけとして、絵は
現代のさまざまな表現へと拡大していった。
”近代の大芸術家”パウロ・ピカソ 1881-1973
・スペインのマラガに生まれ、フランスで制作活動をした画家。
・ジョルジュ・ブラックとともに、キュビズムの創始者として知られる。
・生涯におよそ 1 万 3500 点の油絵と素描、10 万点の版画、3 万 4000 点の挿絵、300
点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家である。
・ピカソは作風がめまぐるしく変化した画家として有名。
・正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。ピカソは生涯に 2 回結婚し、3 人の女性との
間に 4 人の子供を作った。
・多視点構造⇔単視点構造
キュビズムの時代(1907~1916 年)
『ヴァイオリンと葡萄』 1912年 パブロ・ピカソ
・ピカソの代表的な絵画である”キュビズム”の時代。
・1915 年には恋人のエヴァが病気でこの世を去って、ピカソは一人になってしまう。
『アビニヨンの娘たち』 1907 年-1908 年 パブロ・ピカソ
フォーヴィスム
色彩それ自体に人間の内的心理や感覚、感情を表現する力があると見なし、それまでにはありえなかった自由な色彩表現をした。
”内的感情や感覚を表現した画家”アンリ・マティス 1869-1954
・フランス出身の画家。
・印象派、フォーヴィスムのムーブメントに参加。
・ゴッホの影響を多大に受け、マティスの絵画スタイルは自由な色彩による絵画表現 に
変貌する。
・1898 年、マティスはカミーユ・ピサロのアドバイスで、ジョゼフ・マロード・ウィ リ
アム・ターナーの絵を学びためロンドンへ移り、ついでコルシカ島を旅する。
・1899 年 2 月にパリに戻ると借金してまで彼らの作品を購入、蒐集に没頭するよう にな
った。マティスが購入して、家の中の壁にかけたり展示したりした作品の中にはオディロ
ン・ルドンの石膏彫像やポール・ゴーギャンの絵画、フィンセント・フ ァン=ゴッホの
ドローイング、そしてポール・セザンヌの《3 人の水浴》などがあ る。このころにマテ
ィスは、特にセザンヌの絵の構図や色彩や感覚から影響を受けている。
『緑の筋のあるマティス夫人の肖像』1905 年
『帽子の女』1905 年
『ダンス(Ⅰ)』1909 年
『食卓-赤の調和』1908 年
『赤のアトリエ』1911 年
『かたつむり』1952-53 年
・アンリ・マティス は「肘掛け椅子のような」絵を描きたかった
”新しい世界を描いた画家”ヴァシリ―・カンディンスキー(1866-1944)
・ロシアの画家。
・進歩や科学を価値あるものとは認めず、純粋な「内面性」の芸術によって世界を再生させ
よう願う、神秘主義者であった。
・純粋に色彩だけによる心理的効果、というものが存在することを強調している。
・色彩音楽の最初の試みを発表、いわゆる「抽象表現」という、まったく新しい世界が切り
拓かれた。
『コサック兵』 1910-11 年 ヴァシリ―・カンディンスキー
『Composition 6』1913年 ヴァシリ―・カンディンスキー
『Squares with Concentric Circles』 1913年 ヴァシリ―・カンディンスキー
『フーガ』1914年 ヴァシリ―・カンディンスキー
『コンポジション8』1923年 ヴァシリ―・カンディンスキー
『黄・赤・青』 1925年 ヴァシリ―・カンディンスキー
『さまざまな円』1926年 ヴァシリ―・カンディンスキー
『多彩なアンサンブル』 1938年 ヴァシリ―・カンディンスキー
『Composition X』1939年 ヴァシリ―・カンディンスキー
不安の現れ
・貧富の差の拡大といった社会の矛盾
・革命や戦争前後の不穏な時代の空気
・帝国主義による国家間の対立
・物質文明で堕落する社会
”目に見えない心の中を絵にした画家”ジョルジョ・デ・キリコ 1888-1978
・ギリシア生まれのイタリアの画家。
・シュルレアリストとされるが本人は否定。
・ドイツのミュンヘンに留学中に学んだニーチェやショーペンハウエルなどの哲学、 また
アルノルト・ベックリンらの世紀末芸術、シュルレアリスムの影響を受けたとされる。 ・同じイタリアの画家ジョルジュ・モランディに大きな影響を与えた。
『愛の歌』 1914年 ジョルジョ・デ・キリコ
『通りの神秘と憂愁』 1914 年 ジョルジョ・デ・キリコ
イタリアの新しい風
・キリコは「目に見えるもの、形があるものが現実のすべてではない」と考えていた。
・彼が描く絵は
「時計は正午に近い時刻を示しているのに、影が黄 のようにひどく 長い」
「走る汽車の煙が、まっすぐ上に向かっている」
「そのへんにありそうな町の 風景なのに人の気配がまったく感じられない」
のように、見る者の気持ちを不安に させるものばかり。
・また、そのような世界を表現するために、ルネサンス以来の伝統である透視図法などの
絵画技法を無視して、あえて消失点をずらしたり、形を歪ませたりして描いた。
・このような絵をキリコは、「形而上絵画」と呼んだ。
・これまでの画家は、表現方法はどうであれ目に見えているものや現実の世界を描いてき
た。しかしキリコは違い、現実としてあるものは、目の前に見えている対象だけではない
ということに気づき、急速に発展する文明の裏側にある憂鬱や不安の予感といった、
もう 1 つの真実を絵に描こうとした。
”不安を描いた画家”エドワルド・ムンク 1863 - 1944
・ノルウェーの画家。
・「愛」と「死」とそれらがもたらす「不安」をテーマとして制作。
・作品『叫び』のねらいは、突然訪れた興奮が感覚的印象全体をどう変化させるか、それを
表現することにある。
・画面上のすべての線がひとつの焦点-叫ぶ顔-に向かっているように見える。まるで 光景
全体が、そこから発せられる苦痛と興奮に共鳴しているようだ。
・叫びが何を意味するのか分からないだけに、この作品はいっそう 不安を感じさせる。
『叫び』 リトグラフ 1895年 エドワルド・ムンク
・ノルウェーの画家。
・「愛」と「死」とそれらがもたらす「不安」をテーマとして制作。
・作品『叫び』のねらいは、突然訪れた興奮が感覚的印象全体をどう変化させるか、それを
表現することにある。
・画面上のすべての線がひとつの焦点-叫ぶ顔-に向かっているように見える。まるで 光景
全体が、そこから発せられる苦痛と興奮に共鳴しているようだ。
・叫びが何を意味するのか分からないだけに、この作品はいっそう 不安を感じさせる。
※カリカチュア=人物の性格や特徴を際立たせるために(しばしば グロテスクな)誇張や
歪曲を施した人物画(似顔絵)のこと。
”弱い者の代弁者”ケーテ・コルヴィッツ 1867 - 1945
・ドイツの版画家
・彼女は、貧しい人びとや虐げられた人びとに心の底から共感し、彼らの気持ちを代弁しよ
うとした。
・織物工場の労働者たちが失業と暴動に追い込まれた時期の一場面、死にゆく子どもの姿が
作品の痛ましさを高めている。
・作品の主題と自然主義的描写には、おだやかさと安らぎがまったくないことが、ケーテ
のねらいとするところだった。
『貧窮』 リトグラフ 1893-1901 年 ケーテ・コルヴィッツ
”暗い面に目を向けた画家”オスカー・ココシュカ 1886-1980
・オーストリアの画家。
・物事の明るい面だけを見ることを否定して、社会に衝撃を与えた画家のひとり。
・かつて、絵のなかの子どもたちはかわいらしく、満ち足りていなければならなかった。
大人たちは、子ども時代の悲しみや苦悩など知りたくはなかったのだ。
『遊ぶ子ども』 1909 年 オスカー・ココシュカ
ジャコメッティのドローイング
彼は彫刻作品だけではなく絵画作品も多数描いている。
そもそも画家、彫刻科、版画家と分けるのは日本特有で、海外ではジャンル関係なしに表現の幅をひろげ活躍しているアーティストが少なくない。
空中で静止した瞬間のドローイング作品を発表したロバート・ロンゴもドローイングから立体、インスタレーション、映画まで制作したりしています(ビートたけしが出演したキアヌ・リーブス主演「JM」)。
現代の作家であるロバート・ロンゴのドローイング
トランポリンを使い、モデルが空中で静止した瞬間を捉えたポーズを描いたもの。 紙に鉛筆とチャコールといった一般的な方法(写実)で描いたもの。
作品の新鮮さや魅力は画材の種類や技法ではなく、作家の視点やアイデア、欲求だということが伝わってくる。
ジャコメッティに話を戻すと表現が細長いデフォルメが特徴で、どんどん作品が晩年になればなるほど細長くなっていった。
油彩作品では構造や空間性を意識していることがわかる。
「油彩」とか[油絵]とか、芸大では「油画専攻」なんていったりする。「油絵」という呼び方はどこか「絵描き」や「画家さん」をイメージする。
欧米から入ってきた技法を「洋画」と呼んでいた芸大でも「日本画」に対して日本の「油画」という意味がある。なので「油彩」という言い方は、そのジャンルや職業を示すのではなく、その画材や技法を用いるといった意味で使うことが多い。
たとえば版画を主に制作している作家が「先日の水彩スケッチを今回は油彩でやってみた。」といった感じで使う。
世界のアーティストは、その扱っている画材や技法でジャンルを分けるのではなく、テーマや目的によって表現手段(メディア)を多用している。 大学では彫刻を専攻し、卒業後は写真作品を発表している人がいるが、絵画(平面)畑出身の作家とは違った視点でファインダーを覗いていることが分かる。
短時間で具体的な情報のやり取りができる
ミニマル(最小限)ドローイングを学ぶとコミュニケーション力が向上する。
『アンジュールーある犬の物語』 ガブリエル・バンサン
ワイズバッシュ画
ワイズバッシュ画
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年〜1519年)のデッサン
イタリア・ルネッサンス期の三代巨匠の一人「最後の晩餐」「モナ・リザ」などで誰もが
知っている画家であるが、実は環境の観察に膨大な時間を費やしていた科学者でもある。
鏡文字、音楽、建築、料理、数学、幾何学、生理学、組織学、解剖学、美術解剖学、人体解剖学、動物解剖学、植物解剖学、博物学、動物学、植物学、鉱物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、化学、光学、力学、工学、飛行力学、飛行機の安定、航空力学、航空工学、自動車工学、材料工学、土木工学、軍事工学、潜水服など様々な分野に顕著な業績と手稿をのこした。
『レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿』より
ダ・ヴィンチの自然観察に徹し、それを解読して描かれたドローイングは、絵画や彫刻の仕事よりはるかに多く、数千点と言われている。
それらのドローイングは、自然に対して科学的な視点を最初に提示したものと言っても過言ではない。観察力を貫いた画期的な姿勢である。
『レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿』より
『レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿』より
『ウィトルウィウス的人体図』、1485年頃、アカデミア美術館(ヴェネツィア)
『レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿(美術解剖学)』より
『レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿(美術解剖学)』より
『子宮内の胎児が描かれた手稿』1510年頃 ロイヤル・コレクション(ウィンザー城)
『レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿』より
『レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿』より
『レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿』より
『レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿』より
『レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿』より
レオナルドがチェーザレ・ボルジアの命令で制作した非常に精密なイーモラの地図
絵を描くこととデッサン力
デッサン力とは、上手い下手の違いではなく情報を収集する力や伝達する能力、ものごとの構造を見極められることや構想している計画や企画を具体的に展開していく能力。
頭の中のイメージ(ビジョン)を絵に描き出す感覚を磨くことが、日常生活や一般的な仕事で見直されてきている。
デッサンで必要な観察眼とは表面的な描写力だけではなく、観ているものの構造や光など周りからどのような影響が及ぼされているのかを読み解き、理解する力である。
このリサーチ力、伝達力は絵を描くことにとどまらず、様々な仕事にも必要とされる。
誰もが得られる喜び
皆と同じものを日常で見て、同じような環境の中で、 他の人が気づかなかったことが気になり、 気になってしょうがなくなり探求が始まる、それが発見。
『最も高貴な喜びとは、理解する喜びである』-レオナルド・ダ・ビンチ-
トリノ王宮図書館が所蔵するレオナルドの自画像(1513年 1515年頃)
日々、暮らしていけることが、どれだけ幸せなことかを気づくために創造力がある。
創造性はアートの世界だけではなく、繰り返される実生活の中でこそ効用を発揮する。
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