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執筆者の写真sfumita7

日常が変わるアート思考 

更新日:6月30日



創造性はアートの世界だけではなく、 繰り返される実生活の中でこそ効用を発揮する。


自分の視座・視野・視点が変わることで世界の見え方が変わる。

アートに触れることで、日常を非日常に変えるのではなく、

当たり前のこととして見過ごしている”日常の奇跡”に気づいて、

視座が変わり視野が広がって視点が多角化して、

結果的に今までの日常が変わる。



アート思考とは


A点からB点まで、できるだけいい手段でたどり着く方法ではなく、

B点を発明するプロセスである。



なぜ発見できたのか?なぜ気づけたのか?その「なぜ」に学びがある。



要はその行動、思考の過程に気づきがある。

実績や成果ではなく、そこに至った過程(創造・創作)に学びがある。




最も高貴な喜びとは、理解する喜びである


芸術家でもあり自然科学の研究家でもあったレオナルド・ダ・ヴィンチは

「凡庸な人間は、注意散漫に眺め、聞くとはなしに聞き、感じることもなく触れ、味わうこ 

 となく食べ、体を意識せずに動き、香りに気づくことなく呼吸し、考えずに歩いている」と嘆き、

あらゆる楽しみの根底には”感覚的知性”を磨くといった真面目な目的があると提唱していた。



脳が喜ぶと”感覚的知性”を磨くことになる。

人工知能(AI)が人の脳から、まだまだほど遠いのは、

人には五感で情報を収集する機能と感覚的知性があること、また

「楽しいからやる」「嬉しいからやってしまう」「誰かが喜ぶからやる」

といった衝動、欲求が行動の源にあるということ。


①0を1にする = 無いものを創造する

②1から9にする = 既存のものを統計的に判断し効率よく作業する

③9を10に引き上げる = 成長の限界にきたときに新しい価値観を創造する


※②は、AIが進歩していく能力

※①と③は、人にしかできないこと、それがアート(創造性)



自分が幸せかどうかは

考え方でどうにかなるけど

大切な人に

幸せを感じてもらえているのか

それが問題なのです。



美意識をもつ


表面的な”美しさ”だけにこだわることではなく

その物事が放つ情報を読み解き、

関心をもって考える意識をもつということ

丁寧な心



「型ができていない者が芝居をすると型なしになる。メチャクチャだ。」

「型がしっかりした奴がオリジナリティを押し出せば型破りになれる。

 どうだ、わかるか?」  立川談志



印象派画家クロード・モネの想いが込められた3枚の絵『日傘をさす女』

妻と子と過ごす時間、溢れ出る幸せ、その瞬間を描いた4年後に妻はこの世を去る。

その7年後に亡き妻の面影を風景画のように描いた。

顔が描かれていない。

その後「人物画のルノワール、風景画のモネ」といわれたように

ほとんど人物を描いていない。



西洋は「絵で埋める」

細部まで描きこまれていたり肖像画であっても背景が描かれたりしている。

「西洋人は余白があることを恐れる」

日本は「描かない」 描くべきものだけを描きあとは余白にする。

「日本人は満たされていることに恐れを抱く」



師匠から「君はなぜ描いているのだ」とかいった問いに対して

「楽しいから」と答え、破門された若き印象派画家オーギュスト・ルノワールは、

モンマルトルのカフェで芸術論をぶつけ合い苦悩する前衛画家たちの中で

幸せそうに絵を描いていた。

そんなルノワールは絵画に輝きを与えた。



西洋絵画の色ルール


赤=慈愛・殉教・権力

黄=異端者・邪悪さ

白=純潔・無垢

黒=禁欲・死

緑=希望・恋

青=誠実さ・悲しみ

多色、縞=社会の規範を乱す者



ジョン・エヴァレット・ミレーが描いた作品『オフィーリア』、

背景に描写される草花には、象徴的な意味が込められている。


ヤナギは見捨てられた愛、

イラクサは苦悩、

ヒナギクは無垢、

パンジーは愛の虚しさ、

首飾りのスミレは誠実・純潔・夭折(ようせつ:若死に)、

ケシの花は死を意味している。



日本人は、

不快を快に転じることのできる文化を持っている。

西洋の画家たちを驚かせた浮世絵師 広重の雨の表現。

当時、線で雨を視覚化する発想はなかった。

今、当たり前のものとしてみている、感じていることは

先人が気づかせてくれた。



一日、何かやりたかったことを一つでもできれば、

それで上等

「今日はこれができたから、それでいい」

「明日は、これだけやればいい」

いっぺんにたくさんできることが偉いわけではない。

一つ一つ、実現していくことが大事。



できるようになると

できなかった頃の気持ちが分からなくなる。

できていないことは意識するが

できていることには意識しなくなる。

できていることを意識したほうが

今の自分を活かせる。

いつでも主人公であれ!



劣等感を感じたら

何も考えないですぐにぼ~とする。

一度寝た後、自分のいいところを思い出して見直す。

劣等感を感じると空しくて悔しくて、辛いものですが、

そんな対象が具体的に存在しているほど

競って無理して乗り越える必要はなく、

自分にできることをよく見直してみる機会にすればいい。



好きなこと、好きなもの、好きな人から

本質や真実を体感していく。

そんな時間を過ごすほどに感覚が磨かれ、

感受性が高まっていく。



思い出す色


宮崎駿アニメの動き、色にはこだわりがある。

色に関して言えば、特に森など風景の緑へのこだわりを感じる。

緑色の色幅、色数からみても

その情報量がリアルな表現に繋がる。

「リアル」とは上手い下手ということより、

情報の「量と質」。



好きなことが才能。

続けられることが実力。

癖は魅力。

磨かれた感覚が、幸せを見つける力になる。

誰もがやっていること、できることでも

自分らしい新鮮な組み合わせで

相対性を実感し充実した時間を過ごせる。

自分という人間は自分だけ。



好きなことが才能。

続けられることが実力。

癖は魅力。

磨かれた感覚が、幸せを見つける力になる。

誰もがやっていること、できることでも

自分らしい新鮮な組み合わせで

相対性を実感し充実した時間を過ごせる。

自分という人間は自分だけ。



絵を描くことは、

絵のプロになるためだけに必要なことではない。

絵の描き方を習うということは、

じつはものの観方、

多角的な考え方、

伝え方を学ぶということであり、

それはたんに目で見るよりもずっと多くのことを意味している。

よく観て繰り返し絵を描くことで

本当のことに気づいていく。



世界で初めて、降る雨を線で描いて可視化した広重。

世の中に動画というものがない時代に

動画的な視点で描いていた絵描きがいた。

宗達、広重、北斎、若冲…

日本の絵師たちは、

瞬間を捉えるのではなく

時間の流れを捉える映像を描いていた。



脳は、主語を判別していない。

だから

いつも周りの人にやさしく、信頼し褒められる人は、

自信に満ちている。

侍は、敵である武将までもリスペクトしていたから

自分を磨き上げることができた。

人との接し方が、人格をつくっていく。

相手ではなく自分を磨いていくことで、

周りも磨かれていく。



何か才能や技術がないと

創作、表現をすることが出来ないと

勘違いをしている方がたくさんいる。

絵にしても小説にしても遊びにしても

大切なのは突き動かす衝動であり、

その衝動を誰かに伝えたいという欲求があること。



楽しいことが才能。

継続すること、

継続してしまうことが重要で、

何よりも説得力がある。

目的意識ではなく、そうしたいからしてしまうこと、

自分を突き動かしている「欲求・衝動」を与えられたものだと考えると

寸暇を惜しんでやってしまう好きなこと楽しいことが才能。



あれこれできないといった思い込み。

先のことを漠然と考えると不安になる。

できる、できないを考える前に

やれることから始める。

続けていれば、理想とするビジョンへの筋道がみえてくる。

一日一日、真っ当に生きている実感が未来の希望になっていく。

毎日の意図の繰り返しで、成長していく。



デッサン力があるということは、

絵の上手い下手の違いではなく

情報を収集する力や伝達する能力、

ものごとの構造を見極められることや

構想している計画や企画を

具体的に展開していく能力。

頭の中のイメージ(ビジョン)を

絵に描き出す感覚を磨くことが、

日常生活や一般的な仕事で見直されてきている。



息詰まったら

全く違うことに切り替えることで、

脳が解放される。

次々と新しい視点で美術作品を生み出し

天才と呼ばれた近代芸術の巨匠パブロ・

ピカソのアトリエには

いつも表現手段の違う絵画、彫刻、陶芸など

制作途中の作品が並べられていた。

一つの制作に執着しないことで、

いつも新鮮な目でそれぞれに集中できていた。



歌舞伎役者 坂東玉三郎氏の芸の目的は

「お客様に生きていてよかったとおもっていただくこと」



できるようになると、できなかった頃の気持ちが分からなくなる。

できていないことは意識するが、できていることには意識しなくなる。

できていることを意識したほうが、

今の自分を活かせる。

いつでも主人公であれ!



何ごとにも丁寧な子は

鈍い様だが伸びる。

鈍いのではなく、自分がしていることを意識している。

そんな子は、失敗した時に一気に学習して成長する。

雑な子は、

失敗が成長するチャンスだということに気づく意識が働かない。

大人も同じ。

丁寧な仕事を褒めて評価すればいい。

相手にも自分にも



幸せは、なりたくてなるものではない。

幸せは、感じるもの。

同じ状況なのに

幸せを感じる人とそうでない人との違いは、

幸せを感じとる感覚が磨かれていないから、

幸せだと感じない。

幸せを感じる感覚は、

何かに打ち込むことで磨かれる。



芸術的な素養としての美意識を磨いている人は、

サイエンスの領域でも高い知的パフォーマンスを上げている。



理論物理学者アルベルト・アインシュタインが残した言葉


「直観は聖なる授かりものであり、理性は誠実なる従者である。私たちは従者を敬う社会をつくり、授かりものを忘れてしまった」



皆が同じことをできなくてもいい。

劣等感を感じると空しくて悔しくて、辛いものですが、

そんな対象が具体的に存在しているほど

競って無理して乗り越える必要はなく、

自分にできることをよく見直してみる機会にすればいい。



「どうしよう?」 と思うと不安になってくるから

何事も「どうしていこうかな!」 と思うことにしている。

分からないことは考えて悩むのではなく、まずは調べる。

分からなかったことは 知ること、理解することで、

思ったより簡単なことに気がつく。



物も事も人によって価値が違う。

「こんなことしかできない。こんなものしかもっていない。」

といった自分の勝手な思い込みで価値を下げている。

好きなこと、楽しんでいたこと、続けてやってきたことの価値は

自分が考えている以上に高い。



なんで意識してよく観ることが大切なのか。

そもそも脳は誤作動を起こすもの。

微量な電気でエコ運転をしているので

効率的に都合よく考えてしまい思い込む。

見たいものしか見えていないし、

思いと直結していない記憶は

忘れていくようにできている。



楽しむことは、本質にたどり着く。

本質を意識したり、気づいたりするだけで、脳が喜び生き返る。

絵を描くとき、

ものやもの事を思い込みや観念でとらえている人と

本質でとらえる訓練をしている人とでは

描く線に違いがでる。




イライラや怒り、憎しみで落ち着かないのは、

その対象に依存してしまうほど増していく。

見返りではなく与えるつもりで寄り添っていれば、

心が穏やかでいられる。



癖にはエネルギーがある。

癖はその人を象徴するシンボルとなる。

癖がある人ほどいなくなると寂しくなる。



絵を描くことは、

絵のプロになるためだけに必要なことではない。

絵の描き方を習うということは、

じつはものの観方、多角的な考え方、伝え方を学ぶということであり、

それはたんに目で見るよりもずっと多くのことを意味している。

よく観て繰り返し絵を描くことで

本当のことに気づいていく。



文化に触れることは簡単。

競争で勝ち抜くことが文化ではない。

特別な優遇もなく、お金を使わなくても

らしいこと、好きなこと、楽しいこと、大切と思えることで

日々、暮らしていけることが、

どれだけ幸せなことかを

気づくために文化がある。



道端の草木や石ころに心を引かれる人もいる。

好きなことで楽しむと感覚は磨かれていく。

「そんなことで」

その人によって心が揺さぶられるものは違う。

幸せは、頭で考えるものではなく心と体で感じるもの。

五感を意識して使うと気分がいい。



伝統工芸を継承する職人さんたちと話をした。

浮世絵だと版元の指示で絵師・彫師・摺師それぞれの技を発揮する。

次の工程を意識した仕事が大切。

だから修業時代に掃除、食事の準備など

日常生活の中でも厳しく指導されることで

精度の高い仕事とその意識を磨いている。

これはすべての職業に通じる。






The king who tried to overcome people

『 人を越えようとした王様 』




その王は、臆病

必要でない力があり過ぎた

使いこなせる力の限界を越えたときから狂い始めた不運の人


その王は、人間

人の中に入ることを嫌った

自分が何であるかを知らなかった

知れるだけのものをもっていたことに気がつかなかった

いつも満足できなかった

不満が不安に変わっていった


その王は、傲慢

いつも上にいたかった

何も支えることができなかった


その王は、道を運び間違えた

そして、何も成しえなかった




『 王様になろうとした家来 』



その家来は、王様の欠点を知った

悩みも知った

従順に仕える術も知った


使われる立場も知った


ただ、立ちはだかる者への信頼が消え、求めるものが変わった日

からの行動に自我が芽生えた

目的が見得て、不満が積もった

真実も現実も問題ではなかった


彼は学び、行動し、目的のためだけに努力した


家来は、王としての悩みを知らず、王としての欠点を知らず、家来としての力を捨てた時、

自我を失い破滅した


従順でない者たちの群れに気がつかず、家来の単なる野望に終わった




『 忘れがちな流れ 』




未来を求め、過去と共に生きている。時間に流されて、今の自分を考えることがめったにない。未来に期待して、過去を反省して、いつも何かに追われている。

時の流れは変えられないが、自分の中での時間はどうにでもなる。どんな時間を見つけていけるのか、流れをどう変えていくのか、考えられる余裕を自分の中に置いておきたい。



何かを残す

かたちを見せ、見えないものを残す


速い流れの中に入ると見えにくい、あるいは見ることさえも忘れてしまう

流れに乗れないから見えてくることもある


未来と過去とは、違う時の流れの中

瞬間のことではなく、数日の現実でもなく

自分だけが創りえる流れ


その流れの中で、新鮮な流れを眺める

そこで見えてきたものが、新しい流れを創るきっかけになる

そして、何かを残すことになる




『 許される範囲 』



知るということが、良いことだとは決して言いきれない。知らない方が良かったといえることもある。知るということで、自分を見失うこともある。



バベルの塔とは、なんだったのか

分裂の始まり

みんなそれぞれの目的で高い場所をめざす

向上心が無いとしたら、無くてもいい状況があったとしたら


ものは言い様、考え様


人がもつ「器」

自分の流れを外れないこと、自分の流れを知ること

大きさ、深さはともかく、見事な「器」に仕上げたいものだ


ものは言い様、考え様


バベルの塔は、なんだったのか

人に何かを教えてくれた魅惑の塔




『 閉鎖された塔 』




今はいまで、先のことを考えてはいるが、多分予測とは違う未来があるということが、今の僕にとって一番の励みになる。予感なのか自信なのか「そんな気がする」そんなものが、自分の未来を左右している「そんな気」がする。



独りだとできないことがある

独りだとできることが、群に紛れるとできなくなることがある


大切なものを誰が知っている

自分が知っている

知っているのに大切なことにならないのはどうしてだ

自分が大切にしていないから


自分を閉ざしてしまうのは、自分以外の誰にもできない

閉ざしてしまうものは、いらない


閉ざされた先には、目指すものがある

すでに持っている



 「戦争なんか嫌だ」と言っても、世界のどこかで起こってしまう。中東問題で、イラクの兵士が「この戦いは聖戦だから、私は参加する。」と言っていた。皆が戦争を拒んでいるわけではない。

 問題点に気づいても「このままでは駄目だ」と思っているだけでは、実状はなかなか変わらない。




『 哲学の種 』





『 記憶の色 』



ある匂いを嗅いだときに懐かしい感情が、急激に沸いてくることがある。何の匂いなのか未だにわからない。初めて来たはずなのに妙に落ち着く場所があるが、なぜなのかわからない。好きな色、嫌いな色はあるけれど、懐かしいと感じる色を見つけたことが今まで無い。




突然記憶が蘇る


特別なことでなく、特別な場所でもない


突然何かが蘇る

記憶しているものなのか、記憶が生んだものなのか判別がつかない

記憶を追うことと想像することは違うけど、両者が刺激し合っているに違いない


今があるから記憶がある

記憶は、嘘か真実か 

想像は、虚像か現実か

記憶と想像で生きることが、無駄かそうではないのか


創造することで、解答のきっかけが見つかる気がする

色を感じることで、記憶の意味がわかる気がする

記憶の色を追うことで、自分を見れる気持ちが沸いてくる












『 生活の条件 』



「住めば都」と言うけれど、その場所で生活するためにもそこで生き続けるための能力が必要となる。人には知恵があるはず、あらゆることを学べる人間にとって能力があるかないかより、持っている力をどう使っていくべきかに問題がある。



光に集まるもの

光を避けるもの


水に生きるもの

水を求めるもの


求めるところに逃れても、生きるためのしがらみが、またそこにある

能力を発揮するための知恵を持ち、運を招き、自分が持ち得た力を才能にする

人として、だだ生きるのではなく、どう生きるかである


何かがありそうな群がある

群がることでできることもある

何もできない群がある

群には入ることで目的を亡くすことがある


弱いから外れるのではなく

敏感だから外れていく

外れたものが集い、またつくるものがある







『 舞台 』



どこでも舞台になりえる。石の上、水の上、雲の上、木の上、草の上、土の上、海の底、テーブル、…、何でも役者になりえる。虫、魚、鳥、葉っぱ、果実、鉛筆、ゴミ、足、…、人の想像力で、いつまでもどこでも舞台を体験できる。

 靴屋に行ったときのこと、若い女性が台の上に片足を乗せ、店員相手にあれやこれや色々な靴を履き替えては、女性の足元に注目していた。舞台の上で、早変わりを演じている役者を観ているように思えた。



見上げるような舞台

玩具のような舞台


絵画の中を動き回る役者、動くから構図が選べる


主役のために脇役がみえてくる

脇役の動きで構図がかわる、主役の観方もかわってくる


優れているものの表れ方が違う

どちらも損をして得をする


でかい舞台も小さい舞台も表れるものに違いはない


自然の姿、あたり前のことが感動につながる






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