№1 長生きした画家の勝利
19世紀フランスの平均寿命は40歳ほどでした。画家クロード・モネは86歳まで長生きしたおかげで、貫いてきた絵画表現が世界で認められた恩恵を晩年にたっぷりと味わうことができました。
モネが若い頃、絵の新たな手法に挑戦する画家たちの作品は売れず、生活は困窮していました。その頃、芸術家として生きていくためには公式美術展覧会サロン・ド・パリで入選することが必須でした。ところが古き慣習と権威を守ろうとする美術批評は、美術の革命家といえる画家たちが描く絵に憤慨し嘲笑していたのです。そんなサロンに対抗して、モネたちでグループ展を開催しましたが、出品された絵は「勉強不足だ」「未完成だ」などと酷評されます。
絵に印象しか描かれていないと感じた批評家ルイ・ルノワは、モネの絵のタイトル「印象派」を引用して、侮辱的な意味で「印象派たちの展覧会」という記事を書きます。これをモネたちは自分たちを表す言葉として自ら使うようになったのです。
『印象・日の出』1872年 クロード・モネ
その頃、世界最大の工業国にのし上がっていたアメリカは、歴史が浅く国民に古典の素養もなく文化への根深いコンプレックスを抱えていました。もとより古い官展も芸術表現の決められたセオリーもなく文化的なものを欲していたアメリカのコレクターたちが、これから価値が出そうな印象派絵画に注目したのです。
『サン・ラザール駅』1877年 クロード・モネ
絵具をパレットで混ぜずに最も鮮やかな純色を素早い筆さばきでキャンバスに乗せていくモネの革新的な手法による臨場感のある絵は、アメリカから世界へと多くの人に愛され「傑作」と呼ばれました。
風景画を多く描いていたモネは晩年、自宅に芸術的な庭園を造成しました。白内障を患い憂鬱に悩まされながらも「花の庭」や睡蓮の池がある「水の庭」を散歩しながら、目を近づけて描けるパステル画や絵具の色を嗅覚で嗅ぎ分けるなど、人生経験を活かして絵を描き続けたのです。
『睡蓮の池、バラ色の調和』1900年
晩年のクロード・モネ
№2 ボロ布のような手
印象派を代表する画家のひとりピエール=オーギュスト・ルノワールは、リウマチ性関節痛に苦しめられていました。晩年には手も足もろくに動かなくなり、車椅子に座ったまま、棒にぶら下がったボロ布のような手に包帯で絵筆を縛り付けて絵を描き続けていたのです。その上、肺の病気になっていた彼にとって、絵を描くことは大変な困難をともなう作業でした。それでもルノワールは
「私の絵は、これから先も少しはましになっていく。これまでに50年かかったが
どう描けばいいのか、わかりかけてきたのだ。まだ、やるべきことはたくさんある!」
と最晩年に、若き日の妻アリーヌのような色白で肉感的な裸婦を意欲的に描き続けました。
若い頃、ルノワールは陶器絵師でしたが産業革命による工業化のあおりで陶器や磁器にプリントの絵付けをする方法が発明され、職人としての道を断念します。その後、印象派の画家モネと出会い、互いに才能を認め合い、スケッチ旅行を共にするなどして絵画表現を磨き続けました。
二人は切磋琢磨しながらもそれぞれ自分の良さに気づいていき、モネはたくさんの風景画を描き、対照的にルノワールは自分の家族や友達などの人物画を中心に描いて、後世では「風景のモネ、人物のルノワール」と呼ばれました。
彼は、生活の糧となる肖像画の依頼でさえ、自分の楽しみとして絵を描いていました。可愛らしい女の子の絵や美しい裸婦像は、しばしばブルジョワ的だと批判されましたが、自分の「描きたい絵」を貫き通したのです。
『陽光の中の裸婦』1875-1876年
『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像』1880年
絵を描くことを生涯、修行ではなく楽しみ続けたルノワールは、死の数時間前まで絵筆をとり、ギリシャ神話の由来から美と愛のはかなさの象徴とされている“アネモネ”を最期に描きました。そして、絵筆を外し「ようやく何かがわかりかけた気がする。」という言葉を残し亡くなったそうです。享年79歳でした。
晩年のピエール=オーギュスト・ルノワール
№3 年金生活の日曜画家
パリの税関職員に22年間務めながら、仕事の余暇に絵を描いていた日曜画家のアンリ・ルソー。世界的に知られた代表作は、税関を退職して早々に年金生活に入っていた50歳代に描いた作品でした。
ルソーのようにアカデミックな美術教育を受けていない画家たちは”素朴派”と呼ばれました。ポスト印象派画家のポール・ゴーギャンは元実業家で、ファン・ゴッホも元牧師で素朴派画家のです。これら素朴派の画家たちは独学で絵の修行をしてきたからこそ、西洋絵画のセオリーや古い慣習に囚われることなく時流に敏感に絵を描いて、独自の表現を純粋に探求できたとも考えられます。
19世紀に万国博覧会がパリで開催され、それまで触れることがなかった他民族の文化が紹介されました。パリの芸術家や庶民は異文化に新鮮な衝撃を受けます。印象派の画家たちは浮世絵などの日本文化に魅かれ、ルソーやゴーギャンは初めて見る南国の風景写真や未開の部族の生活様式に新しい創作意欲と未知なる世界への好奇心を掻き立てられたのです。
ルソーが異国のジャングルや森の中を本当に体感してきたようなリアルさがある絵を描いていることから、ナポレオン3世とともにメキシコ従軍したと噂されましたが、彼は南国に行ったことはありませんでした。
『蛇使いの女(The Snake Charmer),』 1907年 アンリ・ルソー
生涯、都会から出ることなく、近所の植物園で描いたスケッチ画と動物写真集を素材として、実際に旅行をしてきた知人の話を聞くことで南国に思いをはせて描きました。これら画期的ともいえる手法で描くルソーの作品をモンマルトの画家たちは「へたくそ」と馬鹿にしました。
そんな中、アカデミックな美術の英才教育を受けた近代美術を代表する芸術家パブロ・ピカソは、彼の才能と革新的な絵画制作の手法を認めていました。
『ゲルニカ』1937年 パブロ・ピカソ
晩年に開花した彼の絵は、後世の画家たちに希望を与え、美術家のすそ野を大きく広げたのです。
晩年のアンリ・ジュリアン・フェリックス・ルソー
№4 母国を描いた遅咲きの画家
産業革命によって世界が農業社会から工業社会へと変わりゆく激動の時代にフランスのバルビゾン村近くにあるフォンテーヌブローの森に芸術家たちが集まり、バルビゾン派と呼ばれました。
そのひとり、画家カミーユ・コローは、あえて民族衣装をまとわせた人物を画面に入れて時代劇の一場面のような肖像画や風景画を描いて、フランスの善き慣習、日常的な情景を後世に伝承しようとしました。
晩年に至るまでフランス各地を精力的に旅行し絵を描き続けた画家コローは、大器晩成型の芸術家でした。
18世紀後半、ヨーロッパの工業都市における労働者階級は貧しさから栄養状態も悪く、工場から排出されるスモッグで都会の生活環境は劣悪でした。平均寿命は15~19歳という記録もあります。それでも過酷な農耕生活をしていた若い農民は豊かな暮らしを夢見て都会へと雪崩れ込んでいきました。
そんな世間と逆行したコローたちバルビゾン派の芸術家たちは、田舎へはじき出されたのではなく自ら、都会の下らない権威や醜い争いから離れて、人間本来の生き方を正しく見直そうとしたのです。都会の官展のような競争ではなく、お互いを尊重しあう交友関係を大切にしながら絵を描きました。
自然豊かな風景や田舎ののどかな暮らしぶりを描いた絵は、都会で暮らす人たちにとって癒しとなり人気を集めました。
『モルトフォンテーヌの思い出』1864年 カミーユ・コロー
晩年には貧しい画家に援助を与えるなど多くの画家から慕われたコローの靄がかかったような幻想的な風景画は、モダニズムを先取りしたものだったのです。
「芸術家カミーユ・コローは、唯一無二の巨匠だ。彼の才能に肩を並べられる者は
どこにもいない」
これは後世の印象派を代表する画家クロード・モネの言葉です。
コローの日常的な風景画を詩情ゆたかに描き出す手法は、のちの印象派の画家たちだけではなく現代の美術界にまでその影響がおよんでいるのです。
晩年のジャン=バティスト・カミーユ・コロー
№5 巨匠の光と陰
同時代に生きたバロック絵画の2大巨匠であるドイツ人画家ピーテル・パウル・ルーベンスとオランダ人画家レンブラント・ファン・レインの晩年は、光と陰のように対照的です。
宮廷画家のルーベンスは、祭壇画、肖像画、風景画、神話画や寓意画も含む歴史画など様々なジャンルの絵を描きました。また、七ヶ国語を話し、外交官としても活躍してナイト爵位を受けます。
『マリー・ド・メディシスの生涯:マリーのマルセイユ到着』 1622-25年
ルーベンスの類稀な発想力と表現力を象徴する作品として、国民から人気のなかった王妃を神話の中に登場する女神になぞって寓意的に描き、見事に母君としての正当性と尊厳を示したなど、“求められる絵画”を描いた西洋美術史上、最も成功した芸術家といえます。53歳のときには、2番目となる16歳の若妻エレーヌと再婚し子宝にも恵まれます。
晩年のルーベンスは自身の芸術の新境地を開きたいと考えていましたが、外国からの注文が依然として多く、これらの仕事に忙殺されてしまいます。その華やかな生活習慣のために慢性の痛風を患っており、63歳で心不全により死去しました。
一方、製粉業の中流階級の家庭に生まれたレンブラントは、バロック画家カラヴァッジョの明暗技法を学び「光と陰の魔術師」と呼ばれ、肖像、寓話、歴史、聖書など題材にとらわれない実験的な自画像と作品を描き続けました。
『聖マタイの召命』1600年 カラヴァッジオ
当時の画家は、依頼されたとおりに描く絵が求められていた中で、独自のストーリー性を重視した作品を描き、依頼者から非難されることもありました。
レンブラント『フランス・バニング・コック隊長の市警団』1642年
晩年は、絵の依頼も減り妻や息子に先立たれ、娘と雇った老女中と生活し「パンとチーズと酢漬ニシンだけが一日の食事」と記されるほど質素な日々を送りました。死去する63歳まで”新境地を開拓する絵画“を描き続け、孤独に探求を続けた最晩年でしたが、その絵画手法が後世に多大な影響を与えた芸術家として高く評価されているのです。
ルーベンスとレンブラント
№6 ウクライナから移住した芸術家
ウクライナ生まれの女性芸術家ソニア・ドローネー(1885-1979)は、ロシアのサンクトペテルブルクで芸術や外国語の教育を受けた後、1903年に18歳でドイツに留学し美術学校で1905年まで学び、パリに移住しました。当時、ウクライナは1867年からオーストリア=ハンガリー帝国、1921年にはポーランド、1945年からはソ連の領土になるといった侵攻の歴史が繰り返されていました。
遊牧騎馬民族スキタイといわれていたウクライナ、ロシア、ベラルーシは、東スラブといった同じ土台から生まれ、中世時代から政教一致(ビザンツ帝国)と王権統治(西ヨーロッパ)のどちらにも合わない緩やかな連合体でした。この大帝国キエフ・ルーシ(キエフ大公国)は13世紀にモンゴルの侵攻を受けて崩壊し、政教の中心はキエフからモスクワに移ります。その後、ウクライナは土着文化とヨーロッパ文化を融合しながら“開かれた芸術”が展開していき、18世紀にはバロック彫刻を取り入れた彫刻家ヨハン・ピンゼルが活躍するなどウクライナ独自の芸術をつくり上げていったのです。
ソニアは新しい芸術が開花していたパリで、パブロ・ピカソやジョルジョ・ブラックなどモダンアートの巨匠たちと出会い、アンリ・ルソー、シャガール(ロシア人) などエコール・ド・パリの画家たちとの交流を深めていき、ロシア芸術に影響を受けた抽象絵画の先駆者のひとりであるフランス人画家ロベール・ドローネーと結婚をします。
新進気鋭の芸術家たちからの影響とウクライナ独自の文化を引き継いでいるソニアは、絵画だけではなく衣服、家具、テキスタイル、壁紙などのデザイン分野においてもその才能を開花させました。
晩年まで現代美術とデザインの両分野で活躍し、夫ロベールと並んで「現代美術の主要な創始者」のひとりとされ、存命中の芸術家としてはルーブル美術館で初めて回顧展が開かれた女性芸術家となったソニアは、94歳といった長寿で亡くなりました。
№7 最期の贈り物
生命の力を注ぎ込むように絵を描き苦悩し続けた画家フィンセント・ファン・ゴッホは、最期にアーモンドの花を描きました。アーモンドの花は、日本でいう梅の花にあたり春の訪れに咲きます。
生き方が不器用なゴッホは、生活や精神面でも支え続けてくれた弟テオの生まれたばかりの息子のために、厳しい冬を耐えて春を待つかわいい希望の花の絵『花咲くアーモンドの枝』を贈ったのです。
『花咲くアーモンドの木の枝』 1889年 フィンセント・ファン・ゴッホ
オランダで牧師の家に生まれたゴッホは、16歳から美術商、教師、牧師と職を転々としますが人間関係がうまくいかず解雇され、趣味で絵を描き始めます。仕送りをしていた父親は、働かないゴッホに業を煮やして精神病院に入れようとします。そんな兄を見かねた4歳年下の弟テオからの支援を受けつつゴッホは27歳にして、ようやく画家を志したのです。
独学で絵の修行をしていたゴッホにとって西洋絵画の古い慣習や技法のセオリーは窮屈に感じられ、日本文化である浮世絵の明快な色使いや構図などの絵画表現に開放感と強い衝撃を受けました。ゴッホの主要作品の多くは晩年の4年間、特にアルル時代に太陽を想わせる華やかな『ひまわり』、サン=レミでの療養時代には孤独を感じさせる糸杉を多く描き、最晩年の療養の地オーヴェルでのわずか70日ほどでおよそ80点もの希望に満ちた明るい絵が描かれました。
『ひまわり』1888年8月 アルル フィンセント・ファン・ゴッホ
その中の一枚『花咲くアーモンドの枝』を描き残してゴッホは、オーヴェルの麦畑付近で拳銃によって亡くなりました。テオは、兄の回顧展を開こうと画商に協力を求めましたが、画廊での展示会は実現せず、テオの自宅アパルトマンでの3日間だけの展示を開催してから兄の後を追うように亡くなりました。
ゴッホが最晩年に希望に満ちた絵を描いて過ごしたオーヴェル=シェル=オワーズの墓地で、彼と弟テオのふたつの墓は、今でも寄り添うように並んでいます。
晩年の自画像フィンセント・ファン・ゴッホ
№8 大芸術家の終活
芸術でフランスを発展させようと考えていたフランス国王フランソワ1世は、芸術家として高く評価していたレオナルド・ダ・ヴィンチを宮廷画家としてフランスに招きます。ダ・ヴィンチは晩年にこの安住の地で自身の研究や身辺の整理をはじめます。
ルネサンス期の三大芸術家の一人である彼は、他のミケランジェロやラファエロに比べると絵画作品の制作数はずっと少なく、研究者として様々な分野に顕著な業績と約40年間にわたって書き綴った手稿が、19世紀になって科学技術の分野での先駆的な研究として注目を集めてから彼の名が知られるようになりました。
芸術家というよりは研究者であり学者としての側面が強く、依頼された絵画制作の仕事を途中で投げ出すこともあった飽きっぽい性格の彼が「モナ・リザ」「聖アンナと聖母子」「洗礼者 聖ヨハネ」の三作だけは生涯、手元に残し死ぬまで筆を入れ続けました。彼にとってこの三作にはそれぞれに特別な思いがあったのです。
『モナ・リザ』1503 - 1505 1507年 レオナルド・ダ・ヴィンチ
『聖アンナと聖母子』
『洗礼者聖ヨハネ』
「モナ・リザ」の荒廃した背景は、幼少期に母カテリーナと過ごした生まれ故郷イタリア共和国トスターナ州ヴィンチの村落の記憶を描いた風景ともいわれ、モデルは長年の加筆によりダ・ヴィンチの自画像だとも母親の面影を描いた絵だとも考えられています。
「聖アンナと聖母子」は「モナ・リザ」の背景で描かれている風景に似ており、実母カテリーナと義母アルビエラに見守られる自身の願望の場面を描き残したとも感じられます。
『洗礼者聖ヨハネ』は、ダ・ヴィンチの弟子で同性の愛人だった可能性のあるサライが、その美しい風貌からモデルとして描かれているとも見て取れます。
ダ・ヴィンチは研究によって培った知識や絵画技法の集大成として、生涯において大切だった人たちの面影に寄り添うように三枚の絵に筆を入れ続けながら、充実した最晩年を過ごしていたのでしょう。
レオナルド・ダ・ヴィンチ
№9 画狂老人
世界的にも著名な江戸時代の絵師 葛飾北斎は「70歳までに描いたものは取るに足らない」と、晩年に掛けた信念、衰えない絵への執着心を示していました。
様々な表情の富士山を描いた北斎の代表作《冨嶽三十六景》は、じつに70代になってから制作されたものです。
『富嶽三十六景-神奈川沖浪』 葛飾北斎
このシリーズは、当時に熱狂的な富士山信仰もあったことで浮世絵史上屈指のベストセラーとなりました。その後10年ほど浮世絵の発表を続けますが、最晩年はまた絵手本と肉筆画、いわゆる挿絵画家としても活躍しました。
「私は73歳でようやくあらゆる造形をいくらか知った。90歳で絵の奥義を極め、100歳
で神の域に達し、110歳ではひと筆ごとに生命を宿らせることができるはず」
と自ら「画狂老人」と名乗り、88歳で没するまで創作意欲は衰えることはありませんでした。
『雪中虎図』 葛飾北斎
北斎が6歳のときに江戸で浮世絵版画の多色摺の技術が完成し、華やかな織物に例えられ「錦絵」と呼ばれました。絵草紙屋の店頭に並んだ錦絵は、幼い北斎にとって心を躍らせる最新鋭のマスメディアとして目に映ったことでしょう。10代の頃に北斎は木版画の彫師として修行を積み、やがて浮世絵師に弟子入りし、おもに役者絵を描いていました。88年におよぶ北斎の人生は、物心ついて
間もない頃から、浮世絵版画の歴史とともにあった”錦絵の申し子“といえます。
北斎は生涯で、改号を30回も変え、引っ越しは93回も繰り返しました。また、金銭に無頓着、身なりには気を遣わない、他人から「田舎者」とからかわれることを密かに喜ぶような気性だったようですが、絵を描くことに関しては異常にストイックで、最晩年になっても探求心は衰えませんでした。
今際の際、「天が私の命をあと10年伸ばしてくれたら、いや、あと5年保ってくれたら、私は本当の絵描きになることができるだろう」と老いてなお上を目指す心を最期まで持ち続けて亡くなりました。
葛飾 北斎 晩年の自画像
№10 生涯、現役
「近代絵画の父」ポール・セザンヌの描く絵は、晩年になっても一般社会からは見向きもされませんでしたが、同時代に活躍していたクロード・モネやパブロ・ピカソたちは彼の才能に気づいていました。印象派やモダンアートの画家たちは、新しい絵画表現の研究資料としてセザンヌの絵を買い求めていたのです。
セザンヌが13歳の頃、生涯の親友エミール・ゾラに出会います。よそ者としていじめられていた下級生のゾラに話しかけたことで級友たちから袋叩きになったセザンヌにゾラは、リンゴでいっぱいの籠を贈って親友となります。大学で法律の勉強になじめずにいたセザンヌは、先にパリで小説家として成功していたゾラからの勧めもあって画家を志します。
「何を描くかではなく、どのように描くかが重要だ。」と独自の絵画理論と手法に信念をもって描き続けて、官展へ出品しますが落選を繰り返しました。
セザンヌの才能を信じていたゾラは、彼に捧げる小説まで出版して励まし続けます。挫折しパリを去ろうとしたセザンヌはゾラから友情の証であるリンゴを渡され、
「どこにでもあるリンゴを独自の手法で描いて世の中を驚かせてやる。」
と奮起して、後世に残る名画を誕生させたのです。
『リンゴとオレンジのある静物』1895-1900年 ポール・セザンヌ
セザンヌは最晩年も若い芸術家たちと親交を持ち、様々な展覧会に積極的に出品しました。日曜日だけは教会のミサに熱心に参加して、普段は朝6時から10時半まで郊外のアトリエで制作し昼食は自宅に戻って、午後には風景写生に出かけて日が暮れる5時に帰ってくるといった修行僧のような日課を繰り返しました。
友人への書簡では「私は年をとって衰弱してしまったが、死ぬまで絵は描き続けたいと願っている。」と綴っています。その年、風景写生の制作中に大雨に打たれて体調を崩し、肺充血を併発してしまいます。数日後の朝、日課の風景写生に旅立つように67歳の生涯を閉じたのです。
晩年のポール・セザンヌ
著者 文田聖二 プロフィール
東京藝術大学 同大学大学院 美術研究科絵画専攻 壁画修了/同大学非常勤講師を経て
学校法人服部学園お茶の水美術専門学校および美術学院で教鞭を取りながら、
同学OCHABI artgym開発プロジェクトコーチリーダーとして参加。
多くの企業研修を担当する。
”X”のフォロワー数5万人(2024年7月現在)
造形作家としても「岡本太郎現代芸術賞展」など様々な展覧会に参加。
TBSドラマ「天皇の料理番」登場する画家の描く作品と絵画指導を担当する。
絵葉書の絵
執筆活動としてベストセラー「伝わる絵の描き方」をはじめとするロジカルデッサンシリーズ、「西洋美術の楽しみ方」を出版。
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