日々、暮らしていけることが、どれだけ幸せなことかを気づくためにアートがある。意思、意図、意識、意味を見いだせるアート。生き続けている意が様々なものたちを救ってきた。
創造性はアートの世界だけではなく、繰り返される実生活の中でこそ効用を発揮する。アーティストは日常に隠れている奇跡を発信する。
「そんなことで?」 でも、その人にとっては幸せなのである
道端の草木や石ころに心を引かれる人もいる。好きなことで楽しむと感覚は磨かれていく。 「そんなことで」 その人によって心が揺さぶられるものは違う。
幸せは、頭で考えるものではなく心と体で感じるもの。
五感を意識して使うと気分がいい。
アール・ド・ヴィーヴル Art de Vivre(仏)
・放っておけば平凡で代わり映えもしない日々の繰り返しに埋没してしまう日常を
いかに生気に溢れて楽しみや生きがいを追求する能動的な人生に転機するか
・自分らしく幸せに生きること
・生活をアートとして捉え、他人に左右されない生き方を一つの美意識とする
・転じることが成長、明日がくる限り、常に新しい自分を建立していく
・自分なりに丁寧に生きる
幸せ
幸せは、なりたくてなるものではない。幸せは、感じるもの。
同じ状況なのに幸せを感じる人とそうでない人との違いは、幸せを感じとる感覚が磨かれていないから、幸せだと感じない。
幸せを感じる感覚は、何かに打ち込むことで磨かれる。
【創造性のある生活】
人類の祖先は、想像した動物の絵や宗教的、呪術的なストーリー、シンボルを創造するなどの虚構により、認知能力が発達した。
※認知的能力(学習、記憶、意思疎通の能力)
【虚構、創造性により脳(思考力)が劇的に発達した】
•80万年前に火を発見し、30万年前には一部の人類種が日常的に使用。
•7万年前から3万年前にかけて、人類は舟、ランプ、弓矢、針(暖かい服を縫う)を
発明、芸術と呼べる品々、宗教や交易、社会的階層化の最初を創造していった。
クロマニョン人(ホモ サピエンス)は、 虚構により単に物事を想像するだけではなく、
集団でそうできるようになった。無数の赤の他人と著しく柔軟な形で協力できるようにな
り、世界を支配した。
文田聖二 FUMITA SEIJI 作品集「平成美術家日記」
Ⅴ
≪ 日常空間の中に新しい視点を送り込んだデジタルグラフィックス作品 ≫
絵を描くように写真を撮り、写真を撮るように絵を描く。デジタルであることの自由がもたらした作画感覚で表現した作品群。
『 記憶の記録 空はひとつ 』
○コンセプト
「独りではない」、群集の中の孤立もまた、何かと関係して起こる現象である。
人間も物事も、存在を語るときに’他との関わり’を無視はできない。すべてのものが誕生してからすでに何かに関わっている(もともと繋がっている)。
混沌とした国、日本。文化や習慣、環境の違う他者との関係を保ちつつ、自分のアイデンティティを保ち続ける事、それから派生する問題は現代社会に於いて
増々難解になり、混沌としてきている。
様々なコミュニケーション手段(インターネットでの交渉、メールでの意思疎通など)が成立し、その伝達範囲(デジタル開発など)も拡大し続ける現代において、国際交渉に始まり、あらゆる組織、各個人(家族)に至まで自分のアイデンティティを意識すること、更にはそうできる環境を考えていく必要性が高くなってきていると感じている。
自分に関わる「繋がり」の存在を、意識しなくなった時にとる行動を想像すると恐ろしくもあり、寂しくもある。逆に何かに繋がっていると意識することは、安心に希望に強さ、 優しさに繋がることもある。
この作品は、その当たり前だが確かな繋がりを再確認し、また多数の他者と共通認識できるために具現化(画像として視覚化)することを目的とし制作されたものである。
『 記憶の記録 空夜景 』
○ 記憶と記録
旅行で撮影したスナップ写真に落胆する事が多い。例え、仕上がりが美しい写真だとしても違和感がある。記憶に残っている印象とは別物に感じられて、「記録媒体」としては、 納得できたことが少ない。私が絵を描いてきた事で培った感覚も影響しているのか、写真の持つ情報だけでは「記録」として満足できない。ビデオ映像も例外ではない(さながら窓から、外の様子をうかがうような’もどかしさ’’物足りなさ’に似ている)。従来の撮影だけでは、現場で体感した臨場感が写真に反映されにくい。それは、写真に含まれる情報の限界と、人間の五感機能、脳の働きに関する謎に問題が隠されている。
まず「記憶」は、何から構成されているものなのかを想定してみる。その要素(光、空気、音、時間、感情など)を体感する「現場での情報」と、それに繋がる「過去の情報(脳に貯えられている記録)」とに二分してみる。「思い出」として回想される瞬間に、その前者と後者が、どんな条件(状況)下で、どの様に絡み合ってくるかで”それ”は変異する。全く関係のない情報が、意識とは関係なく結びつく可能性もある。
どんなに状況を揃えたとしても、違う人間に同じ記憶は存在しない、ひとりの人間の場合、類似する記憶はあったとしても、その状況により厳密には条件が異なるので、思い出すたび全く同じ記憶が蘇ることはあり得ないという事が想像できる。その認識が、日常生活のコミュニケーションにも影響してくる(同じ時間を共有している様で、その出来事のとらえ方で変異する「現実」。それは、類似はしていても違う記憶として認識する方が自然である)。
記録する事において、写真はどこまで信頼できるのか。もしかしたら画家の卓越した目を持って描かれた絵画に含まれる情報量が、写真の情報を越える事もあるだろう(顔のモンタージュ写真より、幾つかの情報をもとに描かれた似顔絵の方が、参考メディアとして信頼できる様に)。逆に絵画的な表現力を写真制作に導入できたら、より「記憶」に近い「記録するメディア」になるだろう。
次に、何を記憶し、記録をしていくか。史観は、成功よりも挫折と失敗の場面を、幸よりも不幸を、はるかに多く呈示する。「歴史の幸福なページは空白」、哲学者ヘーゲルが語る様に”社会”を凝視するという事は、未来を切り開くための手がかりをつかむ事なのかもしれない。記録には、歴史には残らない”現実”もある。私しか残せない、残そうとしない個人的な記憶から社会をみてみる。
「作品制作について」の項目でも記述したが、私の制作のモチベーションは身近な所から見付けている。その事が最も「記憶」として生々しいからである。毎日の生活の中で、習慣としている事を通じて、その変化を敏感に察知する作業は、自分を取り巻く社会を正確に捕らえる「記憶」となると考えている。更にこれから起こりうる社会の有事を洞察し、それに適応する術を「記録」していく。
『 記憶の記録 横浜 』
○ 作品制作について
デジタルカメラを使用し、視線の跳躍(瞬間移動)に合わせてシャッターをきる。立ち止まった地点からの視野の範囲内で、数百枚のカットを撮影する事になる。撮影されたカットをつなぎ合わせ、「記憶」に忠実に再構築する。再構築された画面には、撮影時の時間の経過、カットごとの観点の情報が含まれる。多数の観点の総合的な情報によって造られる画面は、人間の視覚機能、脳が空間認識するシステムに近い状態で、視覚データ化される事になると考えられる。
総合的な情報処理の中には、撮影の現場で「五感」によって感じとった感覚も、感情表現(絵画表現で培った色彩感覚や画面構成など)として含まれながら画像処理される。
この一連の撮影作品は,「写真」というよりは「絵画」に近い感覚で制作(ドローイング)されている。
『 記憶の記録 街と花壇 』
『 記憶の記録 街と花壇Ⅱ 』
○ なぜ、人間の機能にこだわるのか
道具、薬、食物、規則、宗教,衣服、住居,…など、人が造り出してきたものは、人間の機能や能力の代替を目的としたものが多い。それらが氾濫する生活環境が、文化や生活習慣の変転に伴って「アナログ」から「デジタル」に移行してゆく。
発展する社会システムの中で、それまで人間が必要としていた幾つかの機能は、不全状態に追いやられている。日々更新される新しいシステムに順応しない人間は、その適応に対する意志の有無に関わらず、排除される運命もある。しかし、そういった現代社会に、突出した先端技術を生み出した日本人の繊細で知的レベルの高い国民性は、まさに手先、指先を器用に使う’箸’中心の食文化から誕生したといっても過言ではない。
不思議なもので、人間の機能を補う事が目的とされて造られた道具は、どんなに原始的なものでも、それを熟練、熟知、熟慮した人間の機能事体をスキルアップさせる可能性を持っている。つまり、”道具から人間が恩恵を受ける”可能性が多々あるという事である(漫画の世界で、ロボットである鉄腕アトムの行動に人間が学習していった様に)。その点を認識し、尊重する事が、「未開への探究」を遂行する上で必要な条件だと考える。
「産業革命以後、技術が技術のためだけに働いているような効率主義が進められ、大量生産による消費社会が生まれた。その結果、いろいろな社会的問題が誘発したのにも関わらず、その姿勢が見直されていない。
私が危惧するのは、先ほど述べた「道具からの恩恵」を軽視した開発、あるいはその事を認識しない「道具、薬、食物、規則、宗教…」が、社会に氾濫する事で起る「無秩序」の習慣が、人を蝕んでいく事である。教育に従事する私にとって、この問題は切実なものとして現場から伝わってくる(最近では、メールの使用など携帯電話に関わる問題への是非など)。
社会に参加している以上、誰にでも身近なところでそれら「氾濫するもの」の影響は浸透している。
現代になって、更に科学と芸術の動向には、技術、思想共に類似(接近)する点が増えている。写真の発明により、画期的にメディアの領域が拡大し、美術史に於いても科学と芸術の融合を提唱した未来派の作家達のようなクリエーターが出現している。芸術は、そういった技能や思想哲学の進化と共に現在まで「ポスト…」や「ネオ…」といった言葉が頻繁に使われて、政治経済の世界でも「新…」「改革」などの言葉が乱用されてきた。
今後どういった意味を持つキーワードが産出されていくとしても社会の有事と芸術の持つ目的が関わっていく事には変わりはないだろう。私の興味は、これからの世紀、そのどちらが先行するかである。
『 記憶の記録 遊び場Ⅰ 』
『 記憶の記録 遊び場Ⅱ 』
『 記憶の記録 遊び場Ⅲ 』
『 美しく描くことだけでは満足しない芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチ 』
空、樹木、人間、花、動物がいかに存在し たがいにいかに関係しあっているのか 自分の目で見、自分の手でつかむことで 描くすべてのことを理解しようとしていた。
すべて絵に描くことで 「よく観ること・よく理解すること」ができる
このことが”ビジネスマン”にも注目されてきた。 最近、一般社会人・企業研修においてもデッサンレッスンへの取り組み方が変わってきたのを感じる。
どんな仕事においても「観察力・思考力・伝達力」が大切だが、 その力を磨くには、絵を描くことが最も有効だということが一般社会にも少しづつ浸透し始めているようだ。
『 記憶の記録 鹿児島と東京Ⅰ 』
『 記憶の記録 鹿児島と東京Ⅱ 』
普通に合わせる必要なし
「普通は」といった思い込み程、曖昧なものはない。
普通と思い込んでいることが
他者にとっては普通じゃなかったりする。
「普通」は流行の様にいつの間にかつくり上げられ、
知らないうちに消えていく。
自分のスタイル、自分たち家族、夫婦のスタイルを造れば上等。
『 記憶の記録 大河 』
「大河」
「独りではない」、群集の中の孤立もまた、何かと関係して起こる現象である。
人間も物事も、存在を語るときに’他との関わり’を無視はできない。すべてのものが誕生してからすでに何かに関わっている(もともと繋がっている)。
混沌とした国、日本。文化や習慣、環境の違う他者との関係を保ちつつ、自分のアイデンティティを保ち続ける事、それから派生する問題は現代社会に於いて増々難解になり、混沌としてきている。
様々なコミュニケーション手段(インターネットでの交渉、メールでの意思疎通など)が成立し、その伝達範囲(デジタル開発など)も拡大し続ける現代において、国際交渉に始まり、あらゆる組織、各個人(家族)に至まで自分のアイデンティティを意識すること、更にはそうできる環境を考えていく必要性が高くなってきていると感じている。
アイデンティティを失いつつある、あるいは、その事を意識しなくてもすむ状況に身を委ねている人々は、自分の実体や所属(役割)が希薄になっていくほど、集団(家族、社会)に依存はするが、他者との協調や、直接対面するコミュニケーションを拒絶する傾向がある。自覚のないまま、精神的に孤立していく人も現在の社会システムの中では、少なくない。すでに繋がっている他者(家族など)との現実を軽視し、希薄な関係の中に見せ掛けの人格をつくりあげ空しく疲労し、孤独になる。そのあげく、又繰り返し責任の負担がかからない使い捨ての”お手軽な繋がリ”を安易に選択していく。
家族や故郷、意識してこなかったことも含み、もともと繋がっているもの(事)を見失い、意識から薄れ不安になっている。
自分に関わる「繋がり」の存在を、意識しなくなった時にとる行動を想像すると恐ろしくもあり、寂しくもある。逆に何かに繋がっていると意識することは、安心に希望に強さ、優しさに繋がることもある。
『 記憶の記録 新宿とローマ 』
『 記憶の記録 静岡とローマ 』
人は視覚情報で動く。
人との会話で伝えたいことのうち、言葉で伝わるのは7%ほど、
声(声色、抑揚、その他の音)が37%。
残り55%は、表情やしぐさなどの言葉以外のコミュニケーション。
しかし指さしなど身振り手振りを言葉の代わりにすると
誤解をまねく。
人は感覚の83%を占める視覚情報で判断している。
『 記憶の記録 繋がる空Ⅰ 』
『 記憶の記録 繋がる空Ⅱ 』
『 記憶の記録 繋がる空Ⅲ 』
『 記憶の記録 数分間 神田祭初日 』
○ 跳躍する視線
具象画家は、一枚の絵を仕上げていく間に何度も対象物を観察し、観点を確かめながら描いている。観察された情報だけではなく、様々な状況や記憶との葛藤が具象画に直接、表現されていく。時間の経過や作家の心情、視線の動きが、刻印されるといってもよい。写真は、一瞬の作業の詰み重ねである。幾つかの視線の総合的な情報によって描かれる具象絵画に比べて、写真撮影は一つの視線の動きで、すべての判断を瞬間的に行っていく作業(転写)である。絵画には、「画家の解釈」が具現化される。
人間が物を視て判断する時の眼球運動は、観たいところに止まる固視状態と、次の箇所に移動する速い跳躍状態を繰り返し行う。勿論、視覚機能だけではなく大脳のメカニズムも関係している事はいうまでもない。このような人間の持つ身体機能からみてみると、カメラの構造は、眼球に近いが、写し出される写真は、人間の記憶とは程遠い。
人は視覚神経から脳を刺激し、それを含む幾つかの情報を身体機能で感知する。それらを総合的に判断し記録し引き出す人間の記憶システムは、写真やビデオ映像よりも、原始的な技能である、絵筆で描かれた絵画的伝達システムに近い。
他に「視野」の問題もある。その特殊な首の構造によって、極端に狭い視野を拡げているフクロウ、後方にのびた自分の胴体の影の範囲以外は見える馬の視野。私たち人間の視野は、耳側におよび、やや下方に拡がった変形した楕円形をしている(平面上ではない)。このような人間の持つ機能を、一つ一つ探究し認識した表現が、人間にとってリアルなメディアとして伝承されていくと考えている。
マルチ人間だったレオナルド・ダ・ヴィンチ(芸術家、技術家、科学者)は、自然界の構造から発見した力学のシステムを、多岐にわたる分野の動力や道具の発明を推進するために応用していった。人体解剖をはじめたダ・ヴィンチの真意はわからないが、その原点が、”人”にあると確信していたのだろう。
『 記憶の記録 都庁 』
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